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2024年4月7日日曜日

『一人ひとりを大切にする学校』

 このデニス・リトキー著(築地書館、2022年)によって書かれた「生徒・教師・保護者・地域がつくる学びの場」というサブタイトルがついた本は、日本の学校教育にとっては50年ぐらい先を行っている試みがいろいろ紹介されています。(原書は、2004年に出ていますから、すでに20年経っていますが!)

 本では、高校レベルの実践が紹介されていますが、このMET Schoolという学校を運営しているBig Pictureという組織は、すでに小学校も運営していますし、そのコンセプトに則った学校を世界中で50校ぐらいの運営しています。https://www.bigpicture.org/schools

 学校が実施しているキーワードには、アドバイザリー、インターンシップとメンター、エキシビション、ポートフォリオ、ナラティブ、保護者と地域のコミットメントなどがあります。

 アドバイザリーは、ホームルームがすでに機能していないということで、一人の学校のスタッフが15人の9~12年生(アメリカの高校は4年間)と過ごすグループのことです。これによって、学校のなかに家族的なものをつくりだしています。

 インターンシップとメンターは、学校の外で生徒が過ごす時間が少なくとも年間の3分の1ぐらいはあるので、その働き口の組織と担当者にアドバイザー役を担ってもらう仕組みです。

 エキシビションとポートフォリオおよびナラティブは、全部、評価に関係します。この学校には、テストらしきものはありません。その効果に疑問をもっているからです。生徒が知ったり、できるようになったことは、それを証明する手段として。より効果的なのがエキシビションとポートフォリオというわけです。ポートフォリオは、生徒が日々つける記録で、エキシビションは年の最後にする博士論文の口頭試問のようなものです。20分ぐらいの発表の後に、40~60分の質疑応答の時間がもたれます。質問をするのは、同級生、上級生、下級生、教師、メンター、保護者などです。ナラティブは、教師が生徒の出来具合やこれからすべきことなどを文章の形で生徒と親に向かって(結構長く)綴ったもののことです。

 Met Schoolをはじめ、Big Picture Learningネットワークの学校は、いわゆる学校らしい建物や敷地はもっていません。保護者はもちろんのこと、地域の団体や会社までを含めたスペースを学校と捉えているからです。生徒に真剣にいろいろ尋ねられたら、それに応えない大人はいるでしょうか? 多くの地域の大人がボランティアで生徒たちの教育にコミットしています。

 本の内容というか、Big Pictureの紹介が長くなりましたが、『ギヴァー』のジョナスたちが生徒時代の最後の数年間していたことも、インターンシップだったことを覚えていますか? そして、かなりの確率でインターンシップで体験した職に、12歳以降(若すぎる!)はついていました。

 こんなところでも(老後の過ごし方や死に方なども?)、『ギヴァー』は時代を先取りしています。

2024年2月2日金曜日

的を射ている小泉今日子さん?!

小泉今日子“クイズ番組で霜降り牛肉もらう”おかしさを指摘…「バラエティくだらない」はテレビへの苦言(日刊ゲンダイDIGITAL) - Yahoo!ニュース

https://news.yahoo.co.jp/articles/a5a62e10a95bf263a3a5db554bcce3df72743e9d

 これはテレビ業界の話ですが・・・同じことはテレビ産業を含めた産業界全体にも、政治の世界にも、そして教育の世界にも言えてしまうことなのですが・・・彼女みたいに言う人がいない? 言われても気づけない・・・気づいても無視・・・

2024年1月12日金曜日

“政治はカネがかかる”を許してはいけない!

 昨年からの「パーティー券」問題を受けて、ようやく岸田さんが重い腰を上げて「政治刷新本部」を立ち上げましたが、それに期待をもてている人はどれくらいいるでしょうか? 何と言っても、自民党の議員38人だけですから。

少なくとも、自浄作用を失っていることは、誰の目にも明らかなのですから、自民党の議員以外の人たちに判断を委ねるぐらいの方法をとらないと無理だと思っている国民/有権者は多いと思います。しかも、今回も「トカゲのしっぽ切り」で終わってしまうとも思っています!

この点に、元政治家で具体的な提言をした人がいたので、紹介します。

「“政治はカネがかかる”に反論する」をテーマに、田中秀征(福山大学客員教授・元経済企画庁長官)が2024年1月11日 NHKラジオ「マイあさ!」木曜7時台けさの“聞きたい”で話した内容です。(これは、1週間後まで「聞き逃し」で聴けます。)


今回の「政治とカネ」の問題の特徴は、違法性を知りながら、集団で長期間にわたって行っていた。非常に悪質。

今までの責任の取り方とは違う必要がある。

岸田さんが「政治刷新本部」を立ち上げた。その論点として掲げたのは、

・再発の防止

・透明性の拡大

・派閥をどうするか の3つ。

一番大事なものが欠けている。それは、党(とかかわった政治家)は、どのような責任を(国民/有権者に対して)取るのか。「これからはやらないようにします」ではすまない。

「辞職します」を含めて、個々の政治家も、党も責任をとらないと、前に進めない。

その議論が含まれていない。

 

自分自身、自民党時代に一回、新党さきがけ時代に一回、パーティー(講演会)でお金をとったことは記憶しているが、それだけ。(それほどお金は必要なかったのか?)お金をかけないでやろうとすれば、できる。

有権者の責任ということからすれば、「選挙や政治にはカネがかかる」と政治家が言ったら、それを認めてはいけない!

政党助成金の制度(300数十億円)もある! それにもかかわらず、さらに金がかかっているのはなぜか?

印刷費、人件費、飲食費(凄まじい金額を使っている)等。

しかし現実は、飲食交際費に多額のお金を使いながら、日本の政治も経済も劣化してきたんじゃないですか。

いま、こんな大きな転機はない!

党より人という発想がない。見識のある個人が一人でも二人でも議会に送れるような仕組みになっていない。いまあるのは、政党に飲まれる制度。

2023年12月25日月曜日

大谷選手のドジャーズとの契約が及ぼす影響

 金額面で脚光を浴びましたが、他にもいろいろと大きな影響があります。

・97%は後払い → 球団はその資金で、他のいい選手と契約できる。

・山本選手の勧誘をはじめ、積極的にチームづくりに貢献している → これは、ほとんど大谷が球団の経営に参画し始めたことを意味する?

・オウナーと編成本部長が役職を退くと、大谷は契約を破棄できる条項も含まれている → これは、これまで6年間のエンジェルズで学んだことの一つ。そして、まさにこれら3つによって、大谷選手はプレーイングマネジャーならぬプレーイング・オウナーになった!?

 3つ以外に、考えられるものはあるでしょうか?

 このような契約形態をとったことは、MBLに及ぼす今後の影響は絶大であるだけでなく、スポーツ界全体にも計り知れないものがあると思います。

 

 これを学校教育に応用すると、どういうことになりえるでしょうか?

まず、何よりも前回の「日大アメフト部問題」で書いた、学生や大学(ないしアメフト部)側との関係を契約制度にしていたらどうなっていたか、と考えてしまいました。そして、より一般的には、

・生徒と教師の関係も、契約関係で捉えられないでしょうか?

・教師と学校(校長)の関係も?

 現在は、こういったことが極めてファジー(曖昧)なので、関係者全員が成長することを阻んでいます。結果的に、学びの質も量も極めて貧困な状態が続いています。大谷選手が言ったように、「勝つために、チームが一丸となって最善を尽くす」ことが実現している学校を探すことは至難です(大谷選手は、それがエンジェルズではできないと判断して、離れました)。

もちろん、学校の場合は「勝つ」ことが目的ではなく、「子どもたちの学びの質と量を最大化」するためです。しかし、それには「教師(中心に、学校に関わる大人たち)の学びの質と量を最大化」することが不可欠です! このことを実現するために、上記の2点を真剣に考え始めなければ、学校教育がよく変わっていくことは期待できないように思います。

2023年12月23日土曜日

日大アメフト部問題

 禁止薬物を使っていた選手たちの責任は言うまでもありませんが、今回露呈してしまったのは、それに対する大学側の対応のまずさです。

 問題が分かった段階での対応、そしてその後延々と続いた後手後手の対応、最終的には廃部で一件落着と思いきや、時を経ずして新アメフト部の創設のニュースと、社会を驚かせるニュースのオンパレードが続きました(まだ、過去形ではない可能大です)。

 日大という組織が抱える問題は明らかですが、そのなかでも、これら一連の騒動の過程で、学生たち(みんな20歳以上? 少なくとも18歳以上で選挙権をもっている!)の声を反映させようとする意志のなさに驚きます。ほとんど幼稚園児扱いというか、小学生扱いレベルです。

 学生の問題行動には、『生徒指導をハックする』を参考にしてほしいと思います。

 これだけの問題から、関わった人がスキル面で何も学べないとしたら、教育機関であること自体をやめるべきですから。

 ちなみに、欧米の大学ではもちろん、高校以下でも、今回の問題は起こりえません。その理由は、シーズンごとにスポーツが違うので、4年間(ないし3年間)一つの部で過ごすということがないからです。3か月ほど(事前の練習期間も含めると、長くて4か月程度)一緒にいたら、その部は翌年までお休みです。選手たちは他のスポーツをするか、アルバイト等をするか、勉強や趣味に生きるか選択肢があります。少なくとも、日本のように年間を通して縛られるようなことは考えられません。先輩後輩の関係もできません。

 さて、どっちの方が健康的でしょうか? あるいは、今後のためにどういう方向性を目ざせばいいのでしょうか? 現状のまま、衣替え程度の変化では、また何年か後に同じような問題が起こることは、いまから見え見えです。

2023年12月21日木曜日

岸田さんの最大の罪

 3か月近く前に「安倍さんの最大の罪!」を書きました。

 岸田さんについては、すでに1年ぐらい前から首相であることが最大の罪、と思うようになっています。

公式会見や議会答弁やぶら下がり取材でも、何を言いたいのかサッパリわからない状態が続いています。残るものが一つもないのです。★

ダラダラとよくしゃべりますが、聴く人に伝わる形では話せているとは思えません。(おもしろいのは、記者たちは、その要点をうますぎる形でまとめて、岸田さんはこう言っていたと言ったり、書いたりするので、そうかと思わされるのですが、本人が本当にそう言っていたのか、言った記憶があるのか、ましてや本気でする気があるのかは別問題の気がします。しかし、聴ける人には聴こえているのかもしれません! 私に岸田さんを聴く耳がないだけで。)

★いま興味をもっている「ストーリー」の大切さの観点からは、彼はストーリーを意識していないことだけは確かな気がします。場当たり的に思いつたことをダラダラと話すだけで。言っている方は、その気になり、聞いている方も、その気にさせる。しかし、中身はまったくない!

 ここからは、岸田さん個人の罪ではありませんが、自民党という集団というか体質の罪なのかもしれないと思うことを、ストーリーに関連づける形で考えてみます。

 いま世を賑わしている「パーティー券」問題です。これは、説明責任の問題などではなく「結果責任」の問題です。自分が政治家の資質を持っていないことを、世に知らしめてしまった、という問題です。自認ないし強制的に辞めさせる以外の選択肢がない。

 このことに関わった人たちは、そういうストーリーを自分が描き出している(実演している)という意識がなかっただけです。結果的には、あまりにも悲惨というか、犯罪的なストーリーでしかないのですから。

 岸田さんも、この犯罪的なストーリーに対して、まったく別なストーリーを提供するチャンスはもっていたのですが(自分も片足というか、両足を同じ問題のなかに入れていたので?)そういうストーリーを野党に対しても、国民に対しても示す選択をしませんでした! 私たちは、常にどういうストーリーを紡ぎ出すかの選択肢はもっているし、それを使うかどうかの判断もしている、ということだと思います。こういうこと、日本の教育のなかでは教わる/扱っているでしょうか?

2023年12月20日水曜日

テレビドラマ「ザ・クラウン」

 6シーズンに分けて放映された、その一番最後が『ギヴァー』の大きなテーマの一つである「記憶」と関連していたので紹介します。(そういえば、このドラマ全体が「記憶」で書かれていたことは言うまでもありません!)

青年期はクレア・フォイ(シーズン1~2)、壮年期はオリヴィア・コールマン(シーズン3~4)、そして老年期はイメルダ・スタウントン(シーズン5~6)の3人の女優によって演じ分けられていました。

 シリーズ6の最後は、チャールズ現国王のカミラ夫人との再婚式があった2005年頃に設定されていました。このころ自身の即位50年の記念式典があり、死んだときのために「プロジェクト・ロンドンブリッジ」の名の元、どのような式典にするかが計画されていたこともあり、自分の過去と王家の未来について考えることが多かったのでしょう。

 設定としては、息子チャールズの再婚式で自分が書いたスピーチを読むというものでした。その内容を書くために、現女王が過去の二人の女王と対話するというおもしろい形で描かれていたのです。壮年期の女王は、「もう年なんだから息子に王位を譲っては」と説得します。現女王は、それに納得し、王位継承を宣言する旨スピーチに書き込みます。しかし、青年期の女王は、「あなたは死ぬまで女王であるべきよ」と説得します。結果的に、現女王は青年期の女王のアドバイスを選択した形で、スピーチ直前に王位継承宣言の部分を削除しました。

 

 記憶がない(記憶の存在を許さない)ギヴァーのコミュニティーでは、このような一人の人間のなかでのやり取りもないことを意味しています! (それはそれで、いいことなのでしょうか?)

 

 一方で、このようなドキュメンタリータッチのドラマがつくられ、放映され、そして全世界で見られてしまうのがイギリス(そして、イギリスの王室)なのだな~とも思わされました。日本では、あと何十年、何百年かかるでしょうか?(日本の王室はおもしろくもないので、ドラマにもならないのかもしれませんが。知らされていないだけで、たくさんのおもしろいストーリーがあるのかもしれません。)