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2010年4月30日金曜日

『ギヴァー』の中のメディアと書物

 コミュニケーションということでは、ジョナスのコミュニティ(世界)にはいったいどのようなメディアが存在しているんだろう、とも思い続けています。テレビやインターネットは存在するのか? スピーカー以外、わたしの記憶では、他にはまったくといっていいほど描かれていません。
 本も、ギヴァーの部屋においてあるだけでした。しかも、ジョナスがそれらを読んだようには書かれていませんでした。

 以下は、「メディアと書物」について、池田晶子著の『14歳からの哲学』の第20章からの引用です。

131 戦争からお笑いまで、全部が一律に電波で流されるから、人は、大事なことと大事でないことの区別がつかなくなっちゃうんだ。
132 目に見える映像を追うのではなくて、目に見えない観念の動きを捉えることだ。外界を疑って、内界を見据えることだ。でも、いまや世のほとんどの人は、外界から与えられる大量の映像情報をただ受け取るばかりで、見えない内界を自力で考えるなんてことは忘れ果てているんだ。
    情報はしょせん情報だ。情報には本当もウソもある。事実か事実でないかということもある。本当のこと、真実というのは、外から与えられて知るものではなく、自ら考えて知るものだからだ。自ら考えて知るより、知りようがないものだからだ。
133 自ら考えて知ることだけが、「知る」ということの本当の意味だ。情報を受け取って持っているだけの状態を、「知る」とは言わない...情報は知識ではない。ただの情報を自分の血肉の知識とするためには、人は自分で考えなければならない...情報は変化するものだけれども、知識というのは決して変化しないもの、大事なことについての知識というのは、時代や状況によっても絶対に変わらないものだということだ。
135 しっかり考えて、賢い人間になりたいのなら、やっぱり本を読むのがいい。むろん、どんな本でもいいというわけじゃない。本物の人が書いた本物の本だ。メディアの策略で流行になっているような本は、まず偽物だ。だまされないように、見る目を鍛えて。
    絶対に間違いがないのは、だからこそ、古典なんだ。

2010年4月29日木曜日

世界を変える言葉、言葉のある教室

 以下は、昨日も紹介した『リーディング・ワークショップ』の第2章「世界を変える言葉、言葉のある教室」の書き出しの部分(26~27ページ)です。

 ニューヨークの第95小学校で、最近、子どもたちが自分の書いた作文をお互いに読み上げて紹介するという行事がありました。この学校はサウス・ブロンクスにあり、およそ1,800人の子どもたちが通っています。9歳のジョンが立ち上がって次のように読み上げました。
 「小さいときにはお父さんがいて、服を買ってくれました。ある日、お父さんは何も言わずに姿を消してしまいました。僕は、お父さんがいないまま育ちました。自分のことを、使ったあとに捨てられてしまう一枚の紙切れのように感じています」
 自分の持っている服の中で一番いい服を着たマリソルが次のように読み上げました。
 「誕生パーティーを開いてもらったことのない子どもはたくさんいるだろうけど、私もその中の一人です。おばさんと一緒に暮らしています。おばさんはマカロニを料理してくれたり、出掛けるように言ってくれたり、どこに行ってきたのかと尋ねたりはしてくれるけど、私の誕生パーティーのことは考えてくれません。ドミニカ共和国には親の違う妹がいますが、その妹は誕生パーティーを開いてもらっています。私が誕生パーティーをしてもらったことがないということを誰も知らないと思います。
 もうすぐ10歳になります。私のために誕生パーティーが開かれることはないだろうけど、想像してみることにしました。友達がやって来て、一緒にダック・ダック・グース をして遊び、ラジオもかけます。ピンク色のケーキもあって『マリソルへ』と書いてあります。でも、私の夢もここで終わりです。
 誕生パーティーを開いてもらったことのない子どもはたくさんいるだろうけど、私もその中の一人です」

 1週間後、マリソルは10歳になりました。子どもたちとその親や先生たち、そして私の同僚でもある教員研修担当のパム・アリン先生は、マリソルのために公園で盛大な誕生パーティーを開きました。木々にはたくさんの風船が飾られ、誕生日プレゼントが準備され、ラジオをかけて、子どもたちはダック・ダック・グースをして遊び、大きなピンク色のバースディケーキもありました。ケーキの上には「マリソルへ、今までのお誕生日のすべてを祝って」と書いてありました。この日、マリソルは「誕生パーティーを開いてもらったことのない子ども」ではなくなったのです。

 後日、クラスの子どもたちは、言葉というものが人にいかに大きな影響を与えるのかについて話し合いました。マリソルが自分のことについて書いた言葉が、その話し合いの助けになりました。言葉が、どのようにしてこの誕生パーティーや、ときには国家全体に関わるような大きな切っ掛けになるかについて考えることができたのです。独立宣言や憲法の条文のような言葉は、まちがいなく社会を変えます。この日、言葉によって変わったのはマリソルだけではありません。このクラスの子どもたちそれぞれが言葉のもつ力について何かを学んだのです。

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 残念ながら、日本の作文指導ではこうはなりません。
 子ども一人ひとりの体験のレベルが原因ということはないと思います。

 また、アメリカでは独立宣言や憲法の条文にも社会を動かす力があるのに対して、日本ではそれがなさそうです。
 
 だからといって、これらの結果、アメリカの方がいいコミュニケーションが取れていたり、いい社会が出来上がっているとも言えません!

 少なくとも、言葉を大切にする努力や文化のようなものがあるというだけかもしれません。

2010年4月28日水曜日

話すこと、話し合うことの大切さ

  いま翻訳している『リーディング・ワークショップ』(新評論、6月刊行予定の140~141ページ)に、昨日書いたことに関連する部分がありました。

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 太古の昔、人間は話すことで地球を語り、太陽や星や雨を説明してきたのです。何世代にもわたり、親は子どもたちを集め、自分たちの物語を話してきました。話を理解し、それに意味を吹き込んでいくことがなければ、宗教や科学や歴史とはいったい何なのでしょうか?
 日々の様々な局面において、「なぜ、このことが起こったのだろうか? 他の方法はなかったのだろうか? これは、他のこととどう関わっているのだろうか? これが世界にとって、また自分にとってどんな意味があるのだろうか?」と考えて問いかけてみることは、まさに人間が生きていくことそのものなのではないのでしょうか。
 子どもたちが本について考えられるようにしていくことは、まさに生きていくこと全体に関わることであり、読むことを教えていくことの本質とも言えます。そして、本を読んで考えていくことを教えていく極めて効果的な方法として、読み聞かせを使っての話し合いがあります。子どもたちが本と一緒に考え、本に書かれていることと自分とのつながりを見いだし、場合によっては本に書かれていることに反対することもできるようになるために、教師は本についての話し合いを使い、最終的には自分の考えたことを表現できるように助けていきます。
 いずれ子どもたちは、本について話し合う人がいなくても自分で思考を発展させていけるようになっていきます。6章でも登場したヴィゴツキーによると、他の子どもたちと話す練習ができることで、自ら考えていく土台をつくっていくことができるということです。「何を考えているの?」、「この本のどこを読んでそう思ったの? そのことを裏付けることはどこに書いてあったの?」といった質問を繰り返し行うと、いずれは自分に同じような質問をするようになっていくのです。
 学校教育において話すという活動は、大きな価値があると見なされることもありますし、まったく無視されることもあります。しかし、いずれにしても話すということが教えられることは皆無に近いのです。子どもたちが上手に話せるようになるためにはどのように教えればよいのかということが、教師の間で話題に上ることはあまりありません。しかしながら、読み書きと同じように話すことは知性の発達を促す原動力であり、この原動力は極めて大切なことなのです。

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 「読み聞かせの後の話し合い」が高学年以降では、ブック・クラブになっていくわけです。

2010年4月27日火曜日

いいコミュニケーション/話し合いのモデルはどこに?

 先日、ある中学校の研修会で、授業中に教師が話している割合を尋ねたところ、ほぼ全員が7割以上と、自己評価しました。次に、理想の割合を聞いたところ、7割以上と答えた人は一人もおらず、多くの人が4~6割と答え、4割以下も4分の1ぐらいいました。

 この数字は、中学校に限定されず、小学校でも、高校でも、大学でも、そして成人教育でも同じような割合を示すのではないかと思います。

 何が言いたいかというと、少なくとも学校でいいコミュニケーション/いい話し合いは学んでいないということです。家庭や会社も、同じレベルだと思います。(ある意味で、すべてつながっていますから。)

 では、どこにいいコミュニケーション/話し合いのモデルを見出すか?

 一つ紹介できるのは、11月1日に紹介した「ブック・クラブ」です。『ギヴァー』を読んだ4人の小学校6年生たちの感想が紹介されています。(子どもたちの話し合いの詳しい記録を読んでみたい方は、メールをください。喜んでお送りします。)別に、『ギヴァー』でないと、疑問を引き出したり、考えを深めたり、広げたりなどが難しいということはありません。ある程度内容のある本なら(あるいは、詩や絵や写真や映画などでも)可能です。
 教師がまったく介入しなくても、子どもたちは十分に話し合える力を持っています。どうも、そのチャンスを奪っているのは、教師というよりも、授業の形態(=一斉授業)のようです。

 さらに言えば、学校教育の中では、それなりに読みと書きは習慣的に大事にされていますが(なんと言っても、読み・書き・そろばんと言われているぐらいですから。しかし、それらが身につくレベルで大事にされているかということは、また別問題です!)、聞く・話すは軽視され続けています。それは、文科省が出している指導要領のそれぞれにあてがわれている時数を見れば明らかになってしまいます。しかも、その少ない時間で重視されているのは、みんなの前で発表するタイプの話し方で、必ずしも私たちが日常的に使うコミュニケーションを図ったり、いい話し合いをすることではありません。

2010年4月25日日曜日

コミュニケーション

 この本で、気になっていたことの一つが、毎日、朝と夜の日課になっている「夢の共有」(49ページ~)と「感情共有」(10ページ~)、そして「公式謝罪」(=決められた謝罪のフレーズ、8ページなど)です。

 前の2つに関しては、振り返りの大切さは認めますが、カウンセリングの変形のような形で行われるそれらからいったい得るものがあるのだろうか? と思っていました。(それも、多分にジョナスの視点からの記述なので、ジョナスにとって役立っていないものは、得るものがないように書かれているだけなのかもしれませんが。)
 要するには、自然じゃないわけです。「強制」的にやらされているという感じです。
 この最後の点は、「公式謝罪」にも言えてしまいます。気持ちがこもっていないのに、ルールだから仕方なく言っているニュアンスが伝わってきます。

 どうもジョナスのコミュニティの会話は、この種のものが多いのかな~、と気になっていたわけですが、ひるがえって、私たちの社会の会話を考えてみると、決してジョナスたちのそれよりもいいとは言えません。さらに改善の努力をしているかというと、そうも言えません。しかし、『ギヴァー』の中で私たちが見本にできるようなことが書いてあるかというと、それもはなはだ疑問です。

 皆さんは、どこにいい見本があると思われますか?

 国会での議論や仕分けのやり取りでないことだけは、確かなことは分かりますが...テレビなどの中にも見当たりません。

2010年4月24日土曜日

個人レベルの意味づくり = 集団レベルの意味づくり

ある本を読んでいたら、こんなことが書いてありました。

「個人レベルで意味をつくり出すプロセスと、集団★レベルで意味をつくり出すプロセスは同じ」だと。

そして、具体的には、「問いかけ、想像、創造」の3つが鍵だと。

もちろん、意味をつくり出した結果がアクション(と同時に、「アクションを起こさない」という選択・判断)ですから、これら3つはとてつもなく大切です。その中でも、「問いかけ」の重要さは際立つ感じがします。疑問に思えなければ、不思議に思えなければ、現状を受け入れるだけで、次のステップに進めませんから。

『ギヴァー』の中で描かれていることは、まさにそんなことのような気がします。


★ 「集団」は、家庭、組織、コミュニティ、国家、地球等、あらゆるレベルだと思います。

2010年4月23日金曜日

読者からの声

以下は、出版社である新評論に送られ、新評論のPR誌に紹介されたものの再録です。

● 毎日をただ何もせずに過ごすことが大変もったいないことだと思わされました。この頃、本から遠ざかった日々を過ごしていましたが、大変読みやすく、あっという間に読んでしまったことにおどろいています。ワクワクドキドキと読めたことに感謝しております。三部作、読んでみたいですね!!未邦訳とは残念。(焼津市 旅館女将 杉山安代 53歳)

● 久しぶりに手にしたSF。ジョナスが丘を橇で勢いよく下る、その先にある旅の目的地を目指して一気に読みあげました。けっしてハッピーエンドではない結末が、ただただ悲しい。これは単なる「if」のお話ではない。いたるところにちりばめられたメッセージを一つずつ拾いあげ、温めなおし、そして自らの〈記憶の器〉にしっかりと刻みたい。年頭から素敵な本に出会いました。(稲城市 大学院生 赤城貴紀 24歳)

● 絶版になっていた作品が、多くの人の声で新訳版としてよみがえった理由がわかった。SFというジャンルは好きではないが、この本は本当に近い未来におこりうるように感じてしまう恐ろしさがあり、リアルな小説だった。(東大阪市 野町実樹子 40歳) ~ 私も、この本にSFというレッテルを貼る必然性がなぜあるのか、いまだに理解できていません。

● 初めはごく平凡な社会の様子と、どこにでもいそうな家族が描かれている。しかし、どこか違和感を感じる、そんな書き出しである。それが読み進めていくうちに、とんでもない社会であることがわかる。本当に引き込まれた。三部作の続編の邦訳を望む。(横須賀市 小学校教頭 澤野誠)

2010年4月22日木曜日

角野栄子さんの「言葉」について

紹介するのは、『ファンタジーが生まれるとき』からです。
「魔女の宅急便」が生まれた経緯のようなことが書かれた本です。

角野栄子さんが、結婚してすぐにブラジルに行き、12歳の男の子にポルトガル語を教えてもらうシーン(162ページ):

 歌つき、踊りつきのレッスンが始まった。単語はいつもリズムに乗って3回は繰り返される。「アスーカ、アスーカ、アスーカ(さとう)」
 歌うように、話すように、手を動かし、腰を動かし、足はステップをふんで。それにあわせて、私もまねして口を動かし、からだも動かす。憶えたと思っても、日がたって忘れてしまうと「あれ・・あれ・・」とどこか一点を見つめて考えているうちに、教えてもらったときの周りの様子などが、ぼーっと浮かんできて、からだも動き、思い出すことができた。頼りになるのはたいてい言葉の意味ではなくて、そのものの形や色、またその時の風景なのだった。そんなとき、言葉って面白いなって、つくづく思った。

 言葉には意味と音がある。でも意味は時代によって変わりやすく、あまり信用がおけないと私は思っている。8月15日やベルリンの壁など。でも音やリズムは変わらない(168ページ)。

 どうも、ポルトガル語というかブラジル語の世界は、日本語の世界と大分違うのかな~、と思わせられます。
 でも、太古はもちろん、中世、あるいは江戸ぐらいまでは、似たような状況は日本にもあったのかもしれないとも思います。


168ページでは、「どうも私たちの国はみんないっしょがすきみたい! 答えが一つが好きみたい。これでは人に与えられている、一番大切な力、想像力の使いかたを忘れてしまうのではないだろうか」と、角野さんはとても心配しています。

2010年4月21日水曜日

学校の教育目標

以下は、ある中学校の教育目標です。

教育目標(Aims of the School)

 人間尊重の精神を基盤とし、確かな知性と創造性を身につけ、心豊かで実践力のあるたくましい生徒を育成する。
 To help students to become rational and considerate , and to foster intellectual and creative growth within an atmosphere of mutual respect.

   ○ 勉学に励み、新しい文化を創造する人
      Encourage students to work hard toward a bright and sustainable

   ○ 気品ある人間性をそなえ、すすんで社会に貢献する人
      Give students a sense of dignity and the desire to contribute to society.

   ○ 心身ともに健やかで、たくましく生きる力を持つ人
      Help students to grow in body , mind and health.

全国的に、公立小中学校の教育目標は、知・徳・体のバリエーションで書かれています。
「考える子、思いやる子、鍛える子」です。 (私学も、基本的には変わりありません。)

さすがに、中学校ともなると、それがかなり発展的な形で書かれることが上の例からも分かります。
しかし、ご自分の中学時代や現状を考えて、これらの目標は実現可能な目標なのでしょうか?

要するに、日本の学校の教育目標は、何年後かに(子どもたちにとっては、卒業するまでに)達成することが求められているようなシロモノではなくて、単なる「願望」や「願い」を表したものにすぎません。教師にとっては、子どもたちがそれをしっかり身につけない限りは卒業できない/させないようなものでもないわけです。

となると、いったいこの「教育目標」の価値は、何なのでしょうか?
単なる「お飾り」?

なんと言っても、『ギヴァー』のことが常に頭から離れない私にとっては、上の3つのポイントを読んだ時に、思い出してしまったのはジョナスの行動でした。1番目に関する記述は弱い感じがしますが、2番目と3番目に関しては、みごとなぐらいの行動で示してくれていましたから。
そのジョナスは、13歳ぐらいでした。ちょうど、中学生の年代です。

日本の中学生たちも、状況、環境、機会さえ提供されれば、結構ジョナスと同じようなことはやってくれる気はしないではありません。その状況、環境、機会を提供するのは、いったい誰なのでしょうか?

『14歳からの哲学』(池田晶子著)の中に、こんなふうに書いてあったのをぜひ思い出してください。
「言葉こそが現実を作っている。言葉を大事にするということが、自分を大事にするということなんだ」(36ページ)

2010年4月20日火曜日

Chimamanda Adichie: The danger of a single story | Video on TED.com

Chimamanda Adichie: The danger of a single story Video on TED.com

直接は関係ないかも知れませんが、いい意味でも悪いでも「物語」の持つ大きな力を語っているとても良いスピーチです。

Mark

2010年4月19日月曜日

哲学の本を借りてくる その3

今日紹介するのは、<反>哲学教科書  ミシェル・オンフレ。
本は、著者自身が実業高校の生徒たちに対して20年間行った授業をまとめたものです。決して公式の教科書ではない、オルタナティブな教科書(生徒たちが受け入れられ/学ぶべきものを学び易い教科書)です。

私が興味を持てたのは、本全体というよりも、ある章のそれもたった一つの項目だけでした。
ページ数にしたら、わずか130~134ページの5ページ。

紹介する理由は、「考えるためには、何よりもまず当たり前なことに気づくことだ。あれこれの知識を覚えるのも大事だけれど、一番大事なことは当たり前なことに気がつくことなんだ」のとてもいい例だからです。

扱っているテーマは、
なぜ君たちの学校は刑務所みたいに造られているのだろうか?

130 なぜかというと、他のいろいろな場所もそうなのだけれど、この場所では自由が好まれず、また、この場所が自由を抑制し、行動の余地を狭め、制約を突きつけ、できるかぎり制限することに、実に長けているからなんだね・・・自由にしてしまうことは、社会の全体にとっては著しい妨げになってしまう。そのために社会の側は、区画割りを方式とするいくつかの制度を編み出したのだ。区画割りとはつまり、君たちの空間や時間を細かく分割することだ。

131 君たちがごく幼い頃から、君たちを社会生活に適応できるようにするという役割を担ってきたのが学校だ。つまり学校は、君たちにもともとある乱暴な自由を放棄させ、法が定める自由を好むように仕向けてきたのだ。身体と魂は鍛えられ、磨かれ、世界の見方、現実の捉え方、物事の考え方がたたき込まれる。規範を植えつけられるのだ。生徒や学生は、評価を高めることが至上命令だ...平均点を超えること...しかし、これらのすべては、君たちの能力を高めることよりも、教師団からの要請に、君たちがどれだけ忠実で、従順で、素直でいられるかを測ることが主目的。

132 学校内では、君たちの居場所を常に把握していることになっている。時間の区画割りは、時間割によって可能になる。


あまりに「当たり前すぎて」学校のスペースや時間割が、「変だ!」なんて気づく人はほとんどいません。
他にも「当たり前」なことが学校の中にはたくさん充満していますし、学校に充満しているということは、私たちの家庭、地域社会、そして会社や役所をはじめあらゆる組織にも充満していることを意味します。学校だけが「おかしな」場所などと言えるはずがありませんから。


本の著者は、社会レベルの自由について、「社会が自由を好まないのは、自由から秩序や社会の結びつき、有益なコミュニティなどは生まれず、むしろ活動の分散化、個別化、社会の細分化がもたらされるからだ。自由は恐れと不安をかきたてるものだ。
 まずそれは個人を不安にする。選択の可能性、つまり責任の重みを受け止める可能性の前に、確信ももてずに立たされる個人は、自分自身に問いかけるしかない。その一方で、自由は社会によって厄介だ。社会は、個人の小グループによって様々な劇が演じられるよりも、そのつど考案される一大プロジェクトの中に人々が統合される方を好むのだ」(130ページ) ←いったい、一大プロジェクトを考え出すのは誰??と書いています。

2010年4月18日日曜日

訳者にとっての「言葉」 その2

2回目は、「こだわった言葉」について、島津さんに答えてもらいました。

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言い回し・表現という意味では、「会話」にはちょっと執着したかなあと思います。
ジョナスたち少年少女、ギヴァー、妹のリリー、ジョナスの両親、等々、
それぞれのキャラクターが明瞭に浮かぶような「話し方」をさせようと、あれこれひねり回しました。
ジョナスなら、繊細さ・感受性・知性、言葉や概念への関心。
アッシャーなら、朗らかさ・奔放さ、言いまちがいのおもしろさ・・・などなど。
ローリーさんの作品の最大の特徴・魅力のひとつは「映像喚起力」なので、
それを日本語でも再現できればなあ、と。
この「映像喚起力」のことは、記憶の世界の表現でも気を使いました。
ジョナスが体験している風景を、できるだけ鮮やかに表現したくて。
もちろん、首尾よくいったかどうかは、読者の判断することですけれど。

「言葉」ですぐに思いつくのは「器」と「注ぐ」ですね・・・
ギヴァー・レシーヴァーを、どうやって的確で印象的な日本語にするか、最後まで悩みに悩みました。
ある日、ぱっと「降りてきた」感じです。
しかしこれまた、「なかなかうまい訳語を見つけた!」なんて思っているのは、訳者だけだったりしますよね。

2010年4月17日土曜日

哲学の本を借りてくる その2

ここ数日、アマゾンで「哲学」で上位にヒットした200冊ぐらいの中から、読みたい! と思えるのを図書館で借りて、実際実物を手にとって、さらに「読みたい!」「読めそう!」と思えるのを読んでいますが、その数は実に少ないです。(私がいかに哲学向きにできていないかを、証明しているにすぎません!)

その中で、野矢茂樹著の『哲学の謎』は、「おもしろそうで、おもしろくない。おもしろくなさそうで、おもしろい」という感じの本でした。

「生物が絶滅しても夕焼けは赤いか」からはじまり、1章を「自分が“赤”と呼んでいる色は他人が“赤”と呼んでいる色と本当に同じ色なのか」に費やしています。 <ジョナスの、りんごの赤を思い出します!>

このことに関しては、「色は対象そのものの性質ではなく、むしろ、対象とそれを見るものとの合作とでも言うべきではないか」(13ページ)や、「ぼくの意識の世界と君の意識の世界と実在の世界の3つの世界があることになるのかな」(15ページ)などと投げかけてくれています。


この本で取り上げられているテーマ(とキーワード)は、

・意識・実在・他者 (夕焼けは、ここの書き出し)
・記憶と過去  ~ 記憶される過去・語り出される過去
・時の流れ   ~ 永遠の「いま」、意味の変貌・自己認識・時の流れ
・私的体験 (上記の赤色の考察) ~ 意味の自閉、私的言語
・経験と知   ~ 経験の一般化・経験の意味
・規範の生成  ~ 正常と異常、規範の学習
・意味の在りか ~ 一般観念、意味理解、言語の構造、ものの名前
・行為と意志  ~ 意志という動力、意志から意味へ、意図の探究
・自由     ~ 自然という観点・実践という観点、決定された世界、非決定の世界、虚構の介入

『ギヴァー』の中で扱っているものばかりのような気がしないではありません。
提示の仕方が単純に違うだけで。

2010年4月16日金曜日

訳者にとっての「言葉」 その1

『ギヴァー』の訳者・島津やよいさんにとっての「言葉」。
その1は、「難しかった言葉」です。

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この本のすべてですね!
ローリーさんの文章は、ほんとうに無駄がなくて、ときに素っ気ないくらいです。
それゆえに「映像が浮かびやすい」のかもしれません。
なにしろ、一つひとつの文章が、何気ないふうに見えて、豊饒なイメージを喚起する力に満ちています。
だから、日本語にしようと思うと、いつも余計なことを付け加えてしまうんです。
頭に浮かんだイメージを、勝手に付け足しちゃうんですね。
あとでもう一度原文を見ると、「そんなこと書いてないじゃん!」ということがけっこうありました。
そこで、いかんいかんと思い、余分なものを削ぎ落とす。
けれど、削ぎ落としすぎると、日本語としては無味乾燥になりすぎて、逆にイメージが湧かない。
そのあわいというかバランスに苦しみました。

2010年4月15日木曜日

言葉を大事に!!

言葉を大事にしているとは言い難い、自分への戒めを込めて書きます。

主人公の「ジョナスは、言葉の使い方について慎重だった」(8ページ)
12歳の儀式を待つ自分の気持ちをあれこれ考えた末、「怖い」ではなくて、「待ちきれない」ないし「気がかり」だと結論づけました。

『14歳からの哲学』(池田晶子著)には、「言葉というものは、現実に存在するものを言うだけではなくて、現実には存在しないもののことをも言うことができる」(28ページ)と書いてあり、前者は物のことであり、後者は思いや感じや考えのことを指します。そして、このことは当たり前のことですねと言った後で、「考えるためには、何よりもまず当たり前なことに気づくことだ。あれこれの知識を覚えるのも大事だけれど、一番大事なことは当たり前なことに気がつくことなんだ」(31ページ)と書いています。

ジョナスは、その当たり前のことに気がつけた人でした。ギヴァーと二人だけだったのかもしれません。

悲しいかな、この私たちの社会も『ギヴァー』のコミュニティと同じように、この当たり前のことに気づけない現象があまりにも多すぎると思うのです。

そして、昨日引用した(36ページの)「言葉を大事にするということが、自分を大事にするということなんだ」や「真面目に生きようって感じになるはずだ」(37ページ)とつながっています。

つながりを感じたのは、私だけでしょうか?

2010年4月14日水曜日

『ギヴァー』と関連のある本 21

『14歳からの哲学』(池田晶子著)を、『ギヴァー』と関連のある本として取り上げます。(左の数字は、本のページ数です。)私があくまでも「面白い」と思った部分の抜書きです。


36 言葉こそが現実を作っている。
   言葉を大事にするということが、自分を大事にするということなんだ。
   目に見えるものだけが現実だと思い込んで一生を終えるなんて、あんまり空しい人生だとは思わないか。

39 自分とは誰か ~ 自分であるということに気がつくのと、言葉を話し始めるのとが同じ頃だというのも、面白いことだ。物ではなくて言葉が世界をつくっているってこと...その言葉を話しているのは自分なんだから、世界を作っているのは、じつは、自分なんだ。子供が言葉を話し始めるってことは、世界をつくり始めるってことなんだ。

47~51 死をどう考えるか  ~  ウ~ン!!!

62 心はどこにある ~ 目に見えないもの、思いや感じや考えのことをひとまとめにして「心」と呼んでいるけれど、同じ目に目えないものの中でも、動いて変わる部分と、動きも変わりもしない部分とがある。前者が感情。後者が精神だ。感情は感じるもので、精神は考えるものだ。移ろい変わる感じや思いについて、動かずに観察、分析して、そのことがどういうことなのかを考えて知るのが、精神というものの働きだ。
   考える精神によって、冷静に観察してごらん。気分や感情というものは、それ自体が面白いものだ。どこからかスーッとやってきて、またどこかへスーッと消えてゆくんだ。

67 他人とは何か ~ 自分が存在しなければ、世界は存在しないんだ...世界は、それを見て、それを考えている自分において存在しているんだ。つまり、自分が、世界なんだ。

76 家族 ~ 完全な親なんか、人間の中には存在しないんだ。完全な親であることができるのは、動物の親だけだ。人生の真実とは何なのか、死ぬまで人は考えているのだから、その限りすべての人間は不完全だ。
78 ところで、不思議なのは、世の中にはいろんな他人がいるのに、なぜ、よりによって、君は君の親のところに生まれてきたのかというこのことだ。理由がないという意味では、これはまったくの偶然だ。でも、偶然なのにそうだったという意味では、これは確かに縁なんだ。他人と他人の「親子の縁」、人生の意味も、ここからから考えてゆくと、意外と面白いことになることに気がづくはずだ。

82 社会 ~ 思いや考えのことを、ここではまとめて「観念」と呼ぶことにしよう...で、「社会」というのは、明らかにひとつの「観念」であって、決して物のように自分の外に存在している何かじゃない...観念が現実を作っているのであって、決してその逆じゃないんだ。
  このことに気がつくことはすごく大事なことで、うまくこれに気がつくことができると、すべてがそんなふうにできあがっているということもわかるはずだ。「社会」なんてものを目で見た人はいないのに、人はそれが何か自分の外に、自分より先に、存在するものだと思っている。思い込んでいるんだ。
83 世のすべては人々の観念が作り出しているもの、その意味では、すべては幻想と言っていい。このことを、しっかりと自覚できるようになろう。社会がそうなら、国家というものもそうなんだ...日本なんて、どこにもない。人々の観念の内にしかない。
84 結局のところ、「社会」というのは、複数の人の集まりという単純な定義以上のものではない。それ以上の意味は、人の作り出した観念だということだ。
 「社会」とはちょっと違ったニュアンスで使われる「世間」という言葉がある。そうだな、君が言うなら「みんな言っているよ」「みんなやってるよ」というあの「みんな」のニュアンスかな。
  さて、でも「みんな」って、誰のことだろう。みんなが言ってるやってることが、君の言うこととやることにならなければならない理由はないよね。みんなが思い込んでいるだけの社会通念を、ひとつひとつ正確に見抜いてゆけるようになろう。

94 理想と現実 ~ 理想こそが現実を作っている。理想を失わずにいるのであれば、それはすでに現実であるということになるね。
 だって、考えてもごらん。もし目標としての理想が自分の内にあるのでなければ、どうやって人は何かをすることができるだろう。「何かをする」ということは、必ず何かを目指してすることだ。

100 友情と愛情 ~ 自分の孤独に耐えられるということは、自分で自分を認めることができる、自分を愛することができるということだからだ。孤独を愛することができるということは、自分を愛することができるということなんだ。そして、自分を愛することができない人に、どうして他人を愛することができるだろう。
101 考えるということは、ある意味で、自分との対話、ひたすら自分と語り合うことだ。だから、孤独というのは、決して空虚なものではなくて、とても豊かなものなんだ。

133 メディアと書物 ~ 情報は変化するものだけれども、知識というのは決して変化しないもの、大事なことについての知識というのは、時代や状況によっても絶対に変わらないものだということだ。 → 古典の価値

150 歴史と人類 ~ さあ、有史以来、あるいはそれ以前から、人類は、この地上で、何のために何をやってきたのだと君は考えるだろうか。人類史にとっての進歩とはなんだろう。
 自分と他人はうんと深いところでつながっていると言ったね。そして、自分とは、世界に他ならないとも。まったく関係のない他人同士が、自分勝手に動き回ることで、世界の時代が現れるのはそのためだ。これは気がつくと、ものすごく面白い眺めだよ。すべての他人が自分なんだ。原始人も科学者もテロリストも、同じ精神としての自分なんだ。歴史とは精神の歴史だ。人が自分を精神であると、はっきりと自覚するとき、そこには「内」も「外」もない壮大な眺めが開けることになるんだ。
 ところで、自分とは人類、人類の全体に他ならないのだから、自分がよくならなければ、人類の全体もよくはならない。逆もまた真。
 さあ、精神であるところの君は、この地上で、何を何のためにやってゆこうと考えるだろうか。人類の進歩とは、何の進歩のことであるのか...

2010年4月13日火曜日

『ギヴァー』は、哲学書 その2

結果的に、今の時点で一番ピンと来た哲学書は、

池田晶子著の『14歳からの哲学』です。

今日は、章立てを紹介します。太字は、『ギヴァー』で扱っていると思えるテーマです。

Ⅰ 14歳からの哲学<A>
 ・考える1~3
 ・言葉1~2
 ・自分とは何か
 ・死をどう考えるか
 ・体の見方
 ・心はどこにある
 ・他人とは何か
Ⅱ 14歳からの哲学<B>
 ・家族
 ・社会
 ・規則
 ・理想と現実
 ・友情と愛情
 ・恋愛と性
 ・仕事と生活
 ・品格と名誉
 ・本物と偽物
 ・メディアと書物
Ⅲ 17歳からの哲学
 ・宇宙と科学
 ・歴史と人類
 ・善悪1~2
 ・自由
 ・宗教
 ・人生の意味1~2
 ・存在の謎1~2

『ギヴァー』では、13歳ぐらいまでのジョナスしか描かれていませんが、「14歳からの哲学」のほぼ全テーマが扱われています。そして、最初は「17歳からの哲学」は「歴史と人類」ぐらいしか扱っていないと思いましたが、読み直してみるとほぼ全部がおさえられている気がします。

★ 『ギヴァー』と『14歳からの哲学』の関連づけについては、異なる意見もあると思いますので、ぜひお聞かせください。

もちろん大切なのは、扱われているテーマの数ではありません。中身です。

2010年4月12日月曜日

『ギヴァー』と関連のある本 20

『仏教「超」入門』(白取春彦著、すばる舎)の中で、特に気にとまった箇所をメモにしておく。 (それが、どれほど『ギヴァー』との関連で位置づけられるのかは、今のわたしにはわからないので、新しいタイトルをおこすことはせずに、コメント欄に書いておく。自分用のメモとして。)左側の数字は、本のページ数です。

67 何事も互いが互いを成立させている。
  すべてが、縁(よ)りて起こることだという。これを縁起(えんぎ)と呼ぶ。

68 仏陀の悟りの中身はこれである。
   すべてのものが関係しあってたがいの存在を支えている。この世のどこを見ても、いっさいを縁起の理(ことわり)が貫いている。これが、ブッダの悟りである。

69 この世のあらゆるものが、関係性においてのみその存在が確かめられているということに気づかされる。
   あなた自身でさえ、多くの人々との関係、あなたの周囲にあらゆるものとの関係において、今のあなた自身でいることができる。
   最初から自分というものが存在しているのではない。多くの人と物と事柄との関係から自分というものが今ここにこういうふうにありえている。
   この世の中のいっさいがあなたという存在を支えている。同時にまた、あなた自身が他の人や物の存在を支えているのである。こういう関係性を、仏教では「縁」と呼んでいるにすぎない。
   仏教をひと言でいえば、縁起、これしかない。

<この辺まで書いてきて、やはり新しい項目を起こすことに決めて、カット&ペーストで、ここに移動してきました。>

70 それだけでは本にならないと編集者から叱られてしまうし、読者に対しても不親切なるから、縁起の思想から当然のように生じてくる「空」の思想についても述べなければならない。
   空は「くう」と読む。
   『般若心経』の「色即是空、空即是色」
   空とは、そこにみえているものには「実体がない」ということを意味している。
   ふつうは、実体があるからこそ、そこに物や人が存在していると考える。しかし仏教では、その存在はたんに現象にすぎないのだと見る。
   だから、空とは決して存在の「無」を意味する言葉ではなく、実体の無を意味すると同時に現象の「有」を意味している言葉だとなる。
   では、そこに実体がないのにどうして現象が生じているのか。
   現象が相互に限定したり依存したりすることのよってである。

<この辺を読んでいると、『ギヴァー』との関連よりも、その続編の Gathering Blue との関連の方を考えてしまいます。>

   現象のこの相互依存は、縁起と呼ばれる関係である。縁起によって、現実世界がここに生じているというわけだ。
   したがって、縁起が分からなければ、空の意味が分からなくなる。仏教を理解するにはあと先がある。

72 実体がないのだから無だ、ということはできない。実体がないけれども現象はちゃんとここにある。私たちはその現象にかかわって生きている。生きていることも現象である。だから、この生は空である。
   色、すなわち物体や肉体の本質は空である、ということだ。空であるものは現象としては物質や肉体である。それ以上の神秘的な意味はない。
   空とは現象だと考えてしまってもいい。現象は幽霊とはまったく異なる。現象は誰の目にも見えるし、かかわることもできる。
73 電話で相手の声を聞く、しかし、本当は相手の声ではない。電気的な現象にすぎない。テレビも同じだ。写真も同じだ。いっさいが現象である。
   自分の声ですら現象である。
   これらはみな空である。けれども、無ではない。実体はないけれども、存在する。現象だからだ。
   世界とはそういう有の集合だ。であるならば、ないがしろにすることなどできるはずもないではないか。
   空のこういう考えを哲学だと思うかもしれない。はっきり言おう、哲学である。
   仏教の第一歩は、縁起と空の哲学から始まるのである。

<ということで、しっかり「哲学」の世界に入ってきています!!>

74 縁起の中には自分の心や行いも含まれていることも知っておくべきだ。
   だから、自分の心や行いを変えることが、悪い縁起を根本から排することになる。
   生活習慣病を形成している悪い縁起こそ、自分の悪い習慣や癖であろう。

<いわゆる「生活習慣病」に限らず、私たちはいかにたくさんの「悪い習慣や癖」の虜になっていることか!!!

77 すべては縁から生まれている
   仏教では、この関係性というものをもっと徹底して考える。
78 そして、この自分というものですら多様なる関係によって成立しているものであって、それら関係性を排除してしまえば、自己というものがついには何もなくなってしまうという驚くべき事態につきあたるのである。

79 自己は無であると同時に、関係性の中では有となる。言いかえれば、現在の関係性の中でこそ自己は有として存在する。
   であるからこそ、今の関係は大切なものである。今ある自分と周囲との関係は、まさに自分の命なのである。
   命とは生きている自分の生物学的な命だけではない。関係も命なのである。
   だから、「お世話になっています」という挨拶は命の確認と感謝となる。
   今だけのことではない。これまでに無数の縁があったからこそ、今の自分がここに命を持って存在しているわけである。
   喜びも悲しみも、悩みすらも、この縁によって生じている。
   そういうふうに見通していくと、結局すべてがいただきものであったということが明らかになろうだろう。
   この命も、人生のこの手応えもいただいたものである。そう気づいたとき、澄みきった安心が自然と生まれてくる。

81 これまで自分が憎んでいた相手に笑顔を向ければ、相手もやがては笑顔を返してくるという縁に変えることもできるわけだ。


もちろん、これで仏教を理解したとは思いませんが、白取さんが「核心」というか「第一歩」と言っている部分は、なんとか理解できた気がします。

2010年4月11日日曜日

What colour is love?

今日参加してきた研修会で知った絵本の中に、What colour is love?(Joan Welshi Anglund作)というのがありました。

残念ながら、日本語には訳されていないようです。

しばらく前にこのブログでも扱った、りんごの赤色を思い出しました。
ものには、色があると私たちは、あえて考えることもなく信じているわけですが、ジョナスがりんごの赤を含めて、いろいろな色が見えるようになるまでは、灰色の世界(?)でした?

でも、この絵本のおもしろさは、「愛」は何色? と聞いているところです。

ものと同じレベルで、色があってもいいのかな?

愛は何色? と問えるなら、幸せの色、不幸せの色、不安の色、友好の色、憎悪の色なども問うべきかな?

なんか、がぜん「哲学的」になってきた感じがします。

哲学の本を借りてくる!!

前回書いたように、『ギヴァー』が哲学で扱うテーマをかなり網羅していることを知ったので、金曜日に早速図書館に行き、よさそうの本を探してみました。

結局は、すでに読んでいた本の中から以下の3つを借りてきました。
・レイフ・クリスチャンソンの「あなたへ」のシリーズ(岩崎書店)
・オスカー・ブルニフィエの「こども哲学」のシリーズ(朝日出版社)
・『14歳からの哲学』他の池田晶子さんの本

上2つは、絵本です。
私には、このぐらいがわかりやすくてちょうどいいので。

これらは、すべて2~3年前に読んでいたのですが、その当時は『ギヴァー』との関連で捉えることもなく、自分の頭の中では素通りしてしまっていた部分が多分にあります。(しかし、今回戻れたのは、頭の片隅にはあったのかもしれませんが。)

レイフ・クリスチャンソンはスウェーデン、オスカー・ブルニフィエはフランスで出された本です。
★ こういうタイプの、日本人が書いた本というのはないのでしょうか?

シリーズ全部は借りて来れなかったので、詳しくはまた後日書きたいと思います。


◆追伸: 上で紹介した3つのシリーズの本ですが、最初に読んだ当時は、今回とは違った目的で読んでいたので、それほどのインパクトは残っていませんでした。

同じ本も、見る視点というか、読む側の用意の違い(というか、用意のあるなし、さらには単にタイミングの違い?)で読めるものがまったく違うんですね!

今回は、『ギヴァー』の視点でみごとに引っかかりました。

これって、いろいろなことに当てはまりそうです。

たとえば、授業。

教える教師の側は、用意ができていると思っても、学ぶ側に用意ができていなければ、教師がいくらがんばって教えたところで、素通りというか単なる雑音です。

他にも、親子の会話、上司と部下のやりとりなどなど。

ということは、私たちは、相当の量の無駄を毎日やらかしているんだな~、と考えてしまいました。

なんとかせねば!!

それとも、その無駄の集積が人生??

これ(「追伸」の部分)って、哲学ですか???

2010年4月9日金曜日

『ギヴァー』は、哲学書!?

『ギヴァー』がSF(サイエンス・フィクション)のジャンルに含まれる本だということを,復刊が決まり販売促進用のチラシができるまで私は知りませんでした。(実は、いまだに半信半疑です。)

そして、昨日、白取春彦監修の『「哲学」は図でよくわかる』を読むまでは、『ギヴァー』が哲学書であるということにも気づいていませんでした。

両方とも、気づいていなかったのは、私だけでしょうか? 
お恥ずかしい限りです。
何せ、小説の類いはほとんど読みませんし、もっと縁遠いのは「哲学」でしたから。

しかし、『「哲学」は図でよくわかる』には、おもに哲学で扱うテーマとして、

・生きることはなにか
・幸せとはなにか
・結婚とはなにか
・言葉とはなにか
・善悪とはなにか
・仕事とはなにか
・死とはなにか

が掲げられていました。

なんと、『ギヴァー』はみごとなぐらいに、これらのすべてを扱っているではありませんか!!

「善悪」の部分だけがちょっとわかりにくいかもしれませんから、補足しますと、要するには「人間は快を求め、苦を避けようとするもの」のことだそうです。まさに、これを突き詰めた社会が描かれているわけです。

これからしばらくは、スウェーデン路線を離れて、こちらの哲学路線を追いかけてみたいと思います。

2010年4月7日水曜日

子どもに耳を傾ける/子どものアクションをサポートする

長崎さん、マークさん: とてもすばらしいビデオ(プレゼン)の紹介、ありがとうございました。

子どもたちを学校や大学の中、そして「子ども」の中に閉じ込めておいては、まずいというか、もったいないんですよね!!

3年ぐらい前から、大人たちがいくら教育を論じてもいっこうによくならないことはすでにわかってしまったので(?)、子どもたちに「こんな学校(大学)あったらいいな!」というアイディアを出し合ってもらうプロジェクトを考えましたが、スポンサーになってくれるメディアが見つけられないので、企画は止まったままです。

★ どなたか、この企画を事業化するのを助けていただけませんか?


同じことは、学校や教育に限らず、あらゆる分野で使えるアプローチなのではないかと思います。

なんといっても、“You must lend an ear today, because we are the leaders of tomorrow.”ですから。

『ギヴァー』の中でも、歴代のギヴァーというかレシヴァーは「大人」だった(?)ので、ジョナスのように考え、そして実際にアクションを起こした者はいませんでした。

子供と大人の学びの関係:   "Learning between growups and kids should be reciprocal"

長崎さんからの紹介で以下のTED.comのPresentationを紹介されました。
とてもいい内容です。
TED.comは世界の知識人が最先端の研究や伝えたいことを10分ほどでプレゼンするサイトです。プレゼンされた内容を字で読めるInteractive Transcriptもあり、私は大学の様々な授業の補助教材として使っています。

以下のプレゼンターのAdoraは12才。既に短編の小説を出版しているライターです。大人が子供から学ぶべきことをJokeを交えながらパワフルに語っています。

特にThe Giverと関連があるのは子供のFree Creativity(自由な創造力)と大人が設けるLimitations(制限)の関係だと思います。自由は時にカオスを招くと大人たちは悟ってしまっているが、それを知らない子供たちは間違えを恐れずに自由に創造し無限の可能性を夢見る。大人たちはそのような自由な発想の力を忘れるべきではない、そして制限すべきではない、とAdoraは力説する。

彼女曰く:

"For better or worse, we kids aren't hampered as much when it comes to thinking about reasons why not to do things...Sometimes a knowledge of history and the past failures of utopian ideals can be a burden because you know that if everything were free, that the food stocks would become depleted, and scarce and lead to chaos. On the other hand, we kids still dream about perfection. And that's a good thing because in order to make anything a reality, you have to dream about it first."

そんな観点から日本の社会や教育を考え、学生と語り合ってみるのも有意義ではないでしょうか?

2010年4月6日火曜日

コミュニティについて 6

これまでは学校教育の例を紹介してきましたが、今回は成人教育です。

スウェーデンに11ある学習協会の中では、小さい方から2番目の「学習推進協会(Study Promotion Association)の本部を訪ねたことがあります。それでも、全国に19の地域事務所と、100の支部と、800人の学習サークルのリーダーを抱えています。実施しているサークルの数は、年間に行われる全学習サークルの約5%にあたるそうです。なんとスウェーデン全体では、32万以上のサークルが活動しており、290万人の人が参加していると言われています。(スウェーデン人の5人に一人は、学習サークルのメンバーと言われています。)

驚くなかれ、スウェーデンでは5人が集まってグループを作り、11の学習協会のいずれかに登録すれば「学習サークル」として認められ、学習活動にかかる経費の80~90%を国、郡、市町村から補助金の形で登録した学習協会を通してもらえることになっているそうです。これは、政権が変わっても続いているとのこと。

多くの人は、文化や趣味のサークルからスタートしますが、その後も継続してサークル活動に参加する人が多く、3人に一人の割合で地域の活動や政治に関心を持ち始める、という数字が出ています。

基本的に、学習サークルは講師を連れてきて話を聞くのではなく、参加者が自分たちの共通のテーマを設定して、それについて参加者が互いに教え合い/学び合う会です。サークルに参加する各自の知識や経験に基づくと同時に、それらを共有し合うことが求められ、お互いに励まし合って学ぶ雰囲気が不可欠です。この形態は、大人が学習する理想的な形とされており、その特徴を整理すると以下のようになります。

参加者こそが主人公 ~ 参加者の主体性が重んじられる。リーダーやたまに登場することもある専門的な知識をもった「講師」も補助的な役割。しかし、リーダーの存在は、サークル活動を効果的に展開するために不可欠であり、リーダーの能力に左右される部分は多分にあるとされている。リーダーとなる人たちは、サークル・メンバーをサポートするための十分な研修を受けていなければならない。

参加者がイコールな関係で、民主的に(協力して)学ぶ雰囲気がつくられる

参加者の興味・関心によってテーマが設定されているだけでなく、日常生活の中で活かせるものにすることを目的にしている

継続性が重んじられている


日本の社会教育や、社員研修、教員研修などの組織内研修とも大分発想およびアプローチの仕方が違います。従って、その成果も自ずと違ってきます。

残念ながら、『ギヴァー』は主人公がジョナスなので、大人たちがどんなふうに学んでいるのかはまったく書かれていません。

2010年4月5日月曜日

コミュニティについて 5

スウェーデンのオレブロ市の「よりよいコミュニティをつくりだす」ためのたゆまぬ努力の紹介の続きです。

4の1~4では、小中学校を紹介しましたが、今度は高校です。

訪ねたのは、カロリンスカ高校で、学校の設立はなんと14世紀にさかのぼるとか。35年ほど前までは、伝統的な男子校だったそうです。

オレブロ市内にある高校では、全部16のコースが提供されていますが、そのうちカロリンスカ高校が提供しているのは、科学と社会科学と芸術の3コースのみ。この学校には、約千人の生徒が学んでおり、各クラスからそれぞれ2名で構成される生徒会が存在し(1クラス平均約30人で、35クラスあるので、生徒会の役員数は70人)、そのうち7人が理事として選ばれ(男4人、女3人)、3週間に1回集まりを持っています。

このうちの6人と約1時間話をすることができました。19歳が3人、18歳が2人。17歳が1人。専攻は、環境科学が1人、社会科学が2人、演劇が2人、音楽が1人、そして言語が1人。

このうち、大学に高校卒業後すぐに行くと答えたのは、なんとゼロ人!! 芸術系の人は、「大学が必ずしもベストではない」というし、科学系の人も、「何をやりたいかはっきりしないので、1~2年は何か別なことをしたい」というし、言語をやりたい人も、「1年間フランスに行ってフランス語をやって来たい」と言っていました。★

★ アメリカはそうでもありませんが、ヨーロッパでは、この高校と大学の間に数年の時間をおく、というのは、もう大分前から当たり前になっています。大学に入れる資格は持ちながらも、「選択的入学拒否」をすることが当然になっているのです。

いろいろ経緯で理事になってしまい、かなりの時間を使っているので、一人以外は成績も落ちているが、「自分たちにっては非常にいい勉強になっている」と声をそろえて言っていました。

その最大の理由は、「生徒がつくる民主的な学校(student democracy)」に関心を持つようになったから。この“生徒のより積極的な授業や学校への関与”ということについては、校長、校長を任命した教育委員会、そして国レベルの教育省もバックアップしています。

どういうことかというと、「まだ多数の生徒は、学校が提供するものを何の抵抗もなしに受け入れている。たとえ不満があっても、愚痴をこぼすだけ。不満を言ったところで、変わらないと思っているし、効果的な発言の仕方もわからない。しかし、自分たちはおかしいところは変えていきたいと思っている。よりよい学びの場、学びの環境をつくっていきたいと思う。つい先月、校長がストックホルムの私立の学校でプロジェクトを中心に据えて学んでいる学校を訪問させてくれ、そこで見たことや感じたことを職員会議で報告させてくれたし、生徒会でも報告した。もっといい勉強に仕方があることがわかったから、変えていきたいと思う。プロジェクトを中心に据えて学ぶと、もっと深く学べることは確か。成績のつけ方が相対評価から絶対評価に(94年に)変わったのも、大きな前進だが、問題はまだ成績が歴然と存在するということ。しかし、今までよりは生徒同士が助け合うようになったことは確か」と、説明してくれました。

こうした生徒たちの発言を、校長はまったく口をはさまずに、しかし笑みを浮かべるようにして喜んで聞いている風景は、ちょっと考えられないというか、うらやましいとさえ思いました。

コミュニティの4-3で紹介したように、小中学校では、プロジェクト学習はすでに導入されていましたから、高校の方がこの点については後追い的になっています。
だからといって、教師たちは何もしていないかというと、そんなことはありません。授業に関しては、従来の講義形式のものから、生徒が主体的に学ぶことを助ける教え方への転換に努力しつつありますし、複数の教科を同時に教える教え方も模索中でした。これには、抵抗を示す教員も少なくないそうですが、すでに主流になりつつあります。なお、教員の教え方の改善ということに関しては、(1)自分の教え方を振り返るアプローチと、(2)子どもたちの多様な学び方に対応した多様な教え方(具体的には、4-3で紹介したマルチ能力など)を教師が身につけることが、大きな課題になっているそうです。

以上は、すべて96年当時のことですから、それから15年近くが過ぎています。さらにここで紹介した延長線上での努力が続いているわけですが、それに対して、日本は振り子がまた元のほうに戻ってしまった状態です。要するに、学力維持には「詰め込みしかない」と。残念ながら、教科書のページ数を3割近く増やすことで、それが実現されることではないことを教育行政にかかわっている方々はご存知ないようです。もちろん、「教科書」というものに幻想を持ち続けている危険な状態も維持され続けているわけですが...文科省(だけでなくマスコミや学会等もですが)は、それによって教育をコントロールできると信じ続けています。すでに、ジョナスの住んでいたコミュニティの教育を実現している日本の教育といえるかもしれません。

2010年4月4日日曜日

もう一つおまけの竜馬との接点

おまけで、竜馬との接点をもう一つだけ。
(しつこくなりますから、もうやめますし、どなたかが他の関連を教えてくれないかぎり、私にはもう思いつきません!!)

『龍馬伝』は、岩崎弥太郎が追想する形で描かれています。
(司馬さんの『竜馬がゆく』は、岩崎弥太郎との関係にこだわって書いてあったような記憶はありませんが、基本的な二人の人間関係は『龍馬伝』と似ていると思いました。というよりも、順番的には、『龍馬伝』の方が『竜馬がゆく』を参考にしているわけですが。)

岩崎は、「竜馬が嫌いでも、好き」というか「憎めない」存在だったのです。

それは、前回も書いたように両者が「遠くを見つめる目」「未来を見つめる目」をもっていたからかもしれません。「郷士」という土佐藩特有の制度の中で、同じ身分に位置していたこともあったかもしれません(実質的には、竜馬の家族はかなり裕福だったのですが)。

しかし、何よりも大きかったのは、「竜馬の私心のなさ」というか「弱さ」に起因しているような気がします。それに対して、岩崎本人はある意味で私服を肥やす方向をばく進したわけですから、「あいつには、かなわない」「申し訳ない」という気持ちがあったのかもしれません。
このことと関連するのですが、竜馬の人間関係の築き方のうまさです。相手が誰であろうと、関係ないんです。同じ目線で話せてしまうような才能をもっていた感じです。身分制度が明快だった時代に、これはまさに時代を突き抜けています。

日本の歴史の中でかなり重要な時に、極めて短い間、竜馬はこうした類い稀なる才能を駆使して、言葉は悪いですが「他人の褌で相撲を取り続ける」ことができたんだと思います。

ジョナスは、そういうことをする年齢まではいっていませんでしたが、「遠くを見つめる目」「未来を見つめる目」は間違いなくもっていましたし、竜馬と同じように人が「好きになる、少なくとも嫌われない」側面と、「私心のなさ、ないし弱さ」の側面も併せ持っていた気がするのです。

「人間関係の築き方」に関しては、竜馬のレベルまではいっていませんが、十分にその可能性は持ち合わせていた気がします。ギヴァーとの接し方やゲイブリエルとの接し方や友だち・家族との接し方などから判断して。

また一つ、学ばせてもらいました。

2010年4月2日金曜日

竜馬とのもう一つの接点

ここ2日ほど、ジョナスと竜馬、ジョナスのコミュニティと竜馬の土佐 (そして、自分、自分にとってのコミュニティや日本も)を考え続けています。

それは、楽しいと同時に、苦しい部分もちょっとあります。全部、自分に跳ね返ってくることですから。他人事としてだけで考えていればいいわけではないので。(「苦しい」というよりも、「励まされる」といった方が正しいかもしれません。私にとっては、ジョナスも竜馬も、とても元気にしてくれる存在ですから。)

ジョナスと竜馬のもう一つの接点を見つけました。

「遠くを見る眼」「未来を見る眼」「先を見る眼」です。

ある意味では、司馬さんはそういう視点で『竜馬がゆく』を書いたんだと思いますから、もう完全に『ギヴァー』と関連のある本の仲間入りです。

まさに竜馬は、遠い先、遠い未来、遠い世界を見つめていた人でした。

そして、ジョナスもどこにあるのかわからない、遠いよそに向かって旅立ちました。

竜馬のすごいところは、土佐からは旅立ちましたが、遠い先、遠い未来、遠い世界をこの日本で実現すべく努力したことでしょうか。

ジョナスは、それをするには若すぎましたし、状況も竜馬のそれとは違うところがたくさんありました。

しかし、すばらしいことは、両人とも、自分にできるベストの行動をとったことです。
(「遠くを見る眼」「未来を見る眼」「先を見る眼」を持っている人は、おそらくたくさんいるんだと思います。でも、そのほとんどは恵まれた眼をもちながらも、何らかの理由で行動を起こさない/起こせないような気がします。)
その意味では、眼を持っていることには当然のことながら大きな価値があるのですが、行動に移せる資質や条件も同じレベルで大切なような気がしてきました。(それは、今後のテーマ?)

ちなみに、テレビの龍馬伝では、岩崎弥太郎が主人公ではないのですが、準主人公的な位置づけで、かつ語りとしても登場しているのですが、この人も「先を見る眼」があった人だと司馬さんも『竜馬がゆく』の中で書いていました。 「先」の見方(見え方、視点、視野)は、竜馬のそれとは大分違いましたが。

★竜馬とジョナスの接点に関心を持てた方は、いっしょに考えてください。お願いします。他にも、たくさんの接点がありそうです!!

2010年4月1日木曜日

竜馬、脱藩!!

エイプリル・フール、おめでとうございます。
今日にぴったり(!?)のテーマをお届けします。

3月28日の「龍馬伝」は、竜馬が脱藩するところがテーマでした。

世の中を、常に『ギヴァー』の視点で見ている私には、「これって、ジョナスのコミュニティ脱出に似てない?」とすぐに思ってしまいました。

その意味では、『ギヴァー』と関連がある本に加えられるぐらいだと思います。

竜馬のころの脱藩は、司馬遼太郎さんの『竜馬がゆく』に「脱藩」に(くにぬけ=国抜け)とわざわざルビが振ってあるぐらいに、おおごとだったようです。
要するに、家族はもとより親戚縁者にまでお咎めが及んでしまうという意味で。
「心優しい」竜馬も、そのことにかなり悩んだらしく、結局は乙女姉さんの励ましなどで、脱藩を決意したようです。

「わしは、土佐にはおれんがぜよ!」
「やっと見つけたがです。自分の進むべき道を」

というふうに。

テレビでは出てきませんが、竜馬の脱藩は、

「考えてみると、天が、竜馬という男を日本歴史に送り出すために、姉の人を離縁せしめ、いま一人の姉に自害までなさしめている。異常な犠牲である」 (『竜馬がゆく』第2巻、文春文庫、413ページ)

と司馬遼太郎さんは書いています。
歴史とは、こういうもんなんですね。(もちろん、司馬史観に異を唱える見方もあります!)

ジョナスにも、似たような気持ちが渦巻いていたのでは、と思いました。
15年間ぐらいではありますが、自分が生まれ育ったコミュニティを抜け出す決意をしたのですから。
(でも、家族に対する思いは、まったくと言っていいほど、描かれていませんでしたね!!家族愛が欠落しているからでしょうか?)

竜馬は土佐の内紛状態にいやけがさし、もっと大きなことがやりたい、ということで出て行ったわけですが、ジョナスもそれに負けないぐらい大きなコミュニティを再生させたいという願いを持っていたのです。間違っても「解放」寸前の赤ちゃんのゲイブリエルを助けるために、コミュニティを脱出したのではありません。それが、日程を早めるきっかけにはなりましたが。