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2010年12月25日土曜日

『教師教育学』 2

 前回は、本の内容については何も書かなかったことに気づきました。

 私にとっては、あまりにも身近な内容ばかりだったことが理由かもしれません。★

 大切なことがたくさん書いてありますが、本のポイントを私になり捉えると、これまで主流であり続けている「理論→実践」のアプローチが機能しないことはすでに証明されているので、「実践→振り返り→自分なりの理論構築」を可能にするアプローチでやっていきましょう、ということになります。

 その際の主役は、これまでのアプローチとは逆に、教師や講師ではなく、生徒や学生や受講者になります。従って、従来の決め決め(と同時に、バラバラ・ブツギリ)のシラバスやカリキュラムをこなすアプローチは取れなくなります。臨機応変に柔軟に、主役である生徒や学生や受講者のニーズや関心等をベースにしながら(かといって、野放図にやりたい放題ではなく、結果的に押さえるべきことはすべて押さえた上に、身につくレベルは従来のアプローチをはるかに越える形で)展開していきます。

 そんなこと可能なのか、と思われるかもしれませんが、可能なのです。「ボタンの掛け違え」や「悪循環や悪習」に気がついて、修正/転換さえできれば。(下で紹介する作文の授業→ライティング・ワークショップや、読解の授業→リーディング・ワークショップ、暗記になってしまう理科や社会→探究=科学者のサイクルを回し続ける理科や社会、単なる正解あてっこゲーム化している算数・数学→問題解決=数学者のサイクルを回し続ける算数・数学などですでに証明されています。)

 そのためには、年間を通して「実践→振り返り→自分なりの理論構築」のサイクルを何度も体験して、自分のものにすることで、どんな状況でも活用できるまでにしていきます。そうすることで、生徒の立場に立つことができ、教科書をカバーすることや一斉授業(要するには、一方的な教え込み)から解放された「自立した教師」が育ちます。

(このサイクルは、たとえば、
●作文版では「作家のサイクル」=①題材探し→②下書き→③修正→④校正→⑤出版が、
●読書版では「読書家のサイクル」=①選書→②下読み→③修正(読み直し、ペア読書、ブッククラブ)→紹介が、
●理科や社会版では「探究のサイクル」=①自らの疑問・質問→②探求・発見→③解釈・修正→④発表等になり、
いずれも年間を通してこのサイクルを繰り返すことで「自立した書き手」「自立した読み手」「自立した科学者」「自立した市民」が育ちます。大人になってからではなく、学校にいる間に十分練習ができるし、また「本物の作家・読書家・科学者・市民など」になる体験を通して学び続けないと、大人になってからでは「もう遅い!」という部分が多分にあります。)

 残念ながら日本の教育の中には、いまだ「自立した教師」「自立した書き手」「自立した読み手」「自立した科学者」「自立した市民」・・・「自立した学び手」を育てるという発想はありません。「ひたすらたくさんの知識をつめこめば何かの役には立つだろう!」の発想で展開しています。バラバラ・ブツギリで提供された知識や技能や態度を、自分のものにできないのは生徒や学生が悪い、という姿勢です。


★ 大学での教員養成は、私の対象外です(マーケットとして捉えにくいという理由がありました?)が、子どもや教師や親や会社員等を対象にしたものは、基本的に同じ内容の情報を過去20年ほど提供し続けてきています。要するには、授業も、教師教育/現職教員研修も、会議の運営も、学校や会社経営も、PTAを含めたNPO運営も、構造的には変わりありません。対象によっては、『教師教育学』よりもはるかに読みやすいし、活用もしやすく書いてありますので、紹介します。

● 教師+子ども向け
 『「考える力」はこうしてつける』『ライティング・ワークショップ』『作家の時間』『リーディング・ワークショップ』『読書家の時間』『「読む力」はこうしてつける』『ドラマ・スキル』『マルチ能力が育む子どもの生きる力』

● 教師向け
 『「学びの責任」は誰にあるのか』『読書がさらに楽しくなるブッククラブ』『理解するってどういうこと?』『たった一つを変えるだけ』『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ』『PBL ~ 学びの可能性をひらく授業づくり』『算数・数学はアートだ!』『効果10倍の教える技術』『「学び」で組織は成長する』『テストだけでは測れない!』『効果10倍の学びの技法』『いい学校の選び方』『校長先生という仕事』『会議の技法』『エンパワーメントの鍵』

● 親/PTA向け
 『いい学校の選び方』『ペアレント・プロジェクト』『会議の技法』『好奇心のパワー』『たった一つを変えるだけ』『「学びの責任」は誰にあるのか』『読書がさらに楽しくなるブッククラブ』『理解するってどういうこと?』『算数・数学はアートだ!』

● 会社員/一般向け
 『エンパワーメントの鍵』『効果10倍の教える技術』『「学び」で組織は成長する』『校長先生という仕事』『会議の技法』『好奇心のパワー』『たった一つを変えるだけ』『「学びの責任」は誰にあるのか』『読書がさらに楽しくなるブッククラブ』『理解するってどういうこと?』

 他にも、1989~95年に関わっていたERIC(国際理解教育センター)で出している出版物のほとんどが、同じ考え方の基に作られているものです。
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2010年12月24日金曜日

『ギヴァー』と関連のある本 54

 F・コルトハーヘン著の『教師教育学』というタイトルの本です。

 教育の世界は、「ボタンの掛け違え」「偉大なる悪循環・悪習」「誤った神話」で成り立っている部分が多分にあります。(最大の問題は、その中にいる人たちが、その事実に気づいていないことかもしれません。そのことは、この本の中での最大のポイントの一つと言っていいのですが、自分が体験をしたことは、たとえそれが効果的な方法ではなくとも、すべてのベースになってしまうからです。)

 問題は、授業レベル、学校レベル、教育行政レベル(文科省と教育委員会)、そして教員養成レベル(要するに、大学)、マスコミ・レベル、政治レベル、会社等の組織レベルで渦を巻いています。(要するに、すべてです。)
 一言でいうと、主役の逆転現象が起こっているということです。学び(学ぶこと)を置き去りにしたままで教えることの横行がおき続けている、と言い換えてもいいかもしれません。

 この本は、ジョナスがコミュニティの人たちのためを思い、そしてゲイブリエルのことも思って、アクションを起こしたことと同じ価値があります。

 この本は、教育の世界での「最初のボタン」をちゃんと付け直しましょう、と提案しています。しかし、実態はボタンを掛け違えていますから、「がんばればがんばるほど、うまくいかなくなる」(162ページ)構造に、いまの教育界は陥っています。

 この本が、日本から出てくればよかったのですが、先に書いたように気づいている人はほんの一握りですから、残念ながら最先進地の一つであるオランダの手を借りなければなりませんでした。(オランダは、私自身1980年代の中ごろから親近感をもっているところです。いろいろ学ばせてもらいました。★)

 教員養成(=大学)レベルでしていることは、そのまま筒抜けで、小中高の授業レベルでしていることや、会社や社会全般でしていることにつながっています。
 大学での教員養成は「最初のボタン」であり、とても大切なのですが、壁はどこの国にもまして厚いのが日本です。でも、ジョナスのような人が何人か出てくることを期待せざるを得ません。そうしない限りは、この本に紹介されているように、大学での教育も、小中高で行われる教育も変わっていかないことを意味しますから。そして、会社や社会や政治も変わらないことを。


★ オランダのよさの一つは、国民のほとんどが英語を使いこなせることです。(この本も、オランダ固有に開発されたものというよりは、英語やドイツ語の文献や経験なども踏まえながら、長年の実践に裏打ちされて考え出されたものです。) 成熟した社会というか、成熟した人間関係の持ち方も、オランダのよさです。

2010年12月19日日曜日

『聖なる地球のつどいかな』 3

240 すでに私たちはあまりにも多くの情報を持ちすぎているんです。問題は情報が多ければいいということではなくて、今ある情報をいかに理解するかということですよ。

 情報革命によって失いつつあるものは、自分たちの時間のような気がしますね。個人的な経験、肉体的な経験が、ひじょうに抽象的なものにとってかわってきている。具体的で肉体的な経験というものを失いつつあるんです。情報の質ということからすれば、ハイクオリティーな情報というのはひとつ以上の感覚を通して手に入れるものなんですよ。たとえば見たり、聞いたり、嗅いでみたり、感じてみたり、ですね。

 たとえ愛も、ひとつ以上の感覚を通して得るものです。

→ 俳句や詩をつくろうとすると、ひとつ以上の感覚を通して手にすることがよくわかります。

242 手紙 vs. Eメール

243 コンピューターは自分の心、気持ちがなければ動かないし、キーボードは自分の言葉がないと打てません。なにより言葉は我々の最高のテクノロジーなんです。私たちはまだそれを認識していないだけなんですよ。

→ 『ギヴァー』の中でも、「言葉」は一つの大切なテーマだったように思います。でも、それが描かれているコミュニティの中では、なんか通じ合っているという感覚よりも、ブツブツ切れているという感覚をもちますね。

243 『亀の島』の詩の中に、「科学は美しい、美である(Science walks in beauty)」という一行がありますが、どういう意味ですか?

  これは、ナバホから来ています。「生きるための、そして精神的な修業のための大事なポイントは美の中を歩むことである」とナバホは言っているんですよ。つまり世界の中に存在する美を見出すこと、世界を美しいものとして見なさい、ということです。

244 つまりここで言う美とは、世界をよく見ることができるのであれば、それは美しいものとして見ることができる、ということです。実際そうなんですよ。科学の世界というものは、世界の美の多層性を見せてくれるような情報をたくさん持っているんです。

245 私はこれからの21世紀の詩は科学を吸収しないといけないと思っています。

 確かにそうですね。詩と科学は姉妹のようなものですね。

246 科学をたくさん取り入れていた宮沢賢治の詩。それから仏教も。

→ 科学と宗教は、『ギヴァー』のコミュニティはあえて排除していたのかな??

260 今後どういう時代を迎え、どういう暮らし方をしていくべきか?

  地球を尊敬して生きていくということが基本だと思います。具体的に言えば、「土」「水」「森」「空気」「時間」それから「心」に対する尊敬です。

2010年12月18日土曜日

『聖なる地球のつどいかな』 2

185 街であれ、田舎であれ、自分の場所を見つけるポイントは何でしょうか?
 そのポイントはその場所に深い喜びがあるかないかだと思います。
 もうひとつは、それが有益かどうかです。自分にとっても社会にとっても。人間だけでなく、すべての存在にとって。
 そしてもうひとつには、同志がいることです。ようするにコミュニティーです。
187 心から話せる人たちの存在。

199 一生の場、あるいは仕事が十代の後半とか、二十代の前半で決められるのはむろん善いことですが、空気はどこにでもあり、人生は変えられるのだから、急いで自分をこれと限定する必要はない。むしろ二十代の後半、三十代の前半、くらいを目安にして、いい加減にではなく自分に誠実に、自分の場と仕事を探し求めていった方がよいとさえ思います。それは、三十代の後半であっても、四十代でも五十代であってもいいんです。

→ 私もこの考え方に賛成です。『ギヴァー』の12歳は、早すぎます!! 人生、70年、80年の時代ですから。

202 重要なことは、想像力だと思います。

203 もうひとつは、傷つけるな(不殺生)ということです。

206 空間的に見れば、地球という場所の中には学ぶべきいいところがたくさんあるのですから、それを僕たちは学んでいけばいいんです。そして時間のスケールで見れば、古くなった過去のことでも、そこから学ぶことはたくさんあるんです。歴史というものの知恵に学ぶことができるということです。

→ そういえば、ジョナスのコミュニティではギヴァー以外は、他の場所からも過去からも学べない人たちの集合体??

  今までの歴史観にとって過去は終わった世界でしょう。そして進歩こそが価値なんです。だけどやはり歴史というものの見方が変わってきて、過去は生きているんですよね。

  3つの時間。一つは、一日一日、春夏秋冬と回帰してくる時間、地球の時間、太陽系の時間、永遠に進歩せず、ただ回帰・循環する時間、生まれては死ぬことの循環であり回帰です。自然時間。
  ふたつ目の時間は、歴史的な時間、まっすぐに過去から未来に向かって進む時間です。
  第三の時間は、ふたつの時間の背後にあって、それを生み出している、(大宇宙という)母なる無の時間とでも呼べる時間です。

→ 2つ目までの時間はピンときますが、3番目は......これは、何を見たりする時に感じるのでしょうか?

211 クリスマスツリーの歴史について紹介 = 本来は、キリスト以前のヨーロッパでの春が来る再生の儀式だったんです。クリスマスというのは本来は夏至のお祭りなんです。モミとかの常緑の木の枝を折ってきて、お互いにたたきあうんです。みんなでたたきあう。その緑の枝は生命の再生を象徴しているからです。そして、蝋燭に火をつけた。蝋燭に火は高いところにつけて立てるんです。太陽なんです。

→ そういえば、『ギヴァー』の中にもクリスマスツリーが象徴的に描かれていました。

217 ある時、友だちとふたりで囲炉裏で火を焚いていた時のことでした。その火が実は縄文時代の人まったく同じ火であるということに気がついたんです。~その時、ひじょうにうれしく思ったことを覚えています...回帰する時間のそれは現成している姿です。

→ この火を見ることを放棄した『ギヴァー』のコミュニティ。スナイダーは、テレビが現代人にとっての焚き火だと指摘しますが、それは違う気がします。テレビが、人と人の心をつなぐことは稀にできるとは思いますが。なかなかそういう番組は放映してくれません。さらには、「火だけを燃やしているチャンネルがあってもいいんじゃないか」と冗談まで言ってくれます。

2010年12月16日木曜日

『ギヴァー』と関連のある本 53

 『野性の実践』の著者であるゲーリー・スナイダーの山尾三省との対談集『聖なる地球のつどいかな』です。最初の3分の2近くは、メモを取らずに読み進んだのですが、残りは結構取りましたので紹介します。対談なので、『野性の実践』よりもはるかに読みやすくもありました。

 長くなるので、3つぐらいに分けます。

171 「場所」の力 ~ 今いるところが己の場所とわかる時修行がはじまる(道元の「現成公案」 ~ それは自分が誰かを深く探すことがテーマ ~ 「仏道を習うというは、自己を習うなり。自己を習うというは、自己を忘るるなり。自己を忘るるというは、万法に証せらるるなり」)

175 人間であるというのは何であるのか?

・ 人はあまりにも大きな力を持ってはいけない、あまりも多くの華やかさ、栄光を持つことはできない。
・ 正気でなければいけない。
・ 質素でなければいけない。
・ 権力を持ちすぎてもいけない。
・ いつも心を開いてなければいけない。

 また、近代社会においては、人間であるための条件の大きな要素がいくつか欠けています。

・ 自分の場所を持たない
・ 家族を持たない
・ 家族の歴史を持たない
・ 共同体にも属さなくなっている
・ 自分の仕事についても、確固とした信念が持てない

176 ですから、まず、自分の場所に腰を落ち着けることです。
  修業というのは本当の生活のことなんです。なにも一日中座禅をしているだけが修業じゃないんです。修業とは、一生懸命生きること。

→ 読み方によっては、『ギヴァー』との関連が感じられると思います。

  対談している両者にとって、場所は新しい場所であることがおもしろいとも思いました。故郷的なニュアンスはまったくないのです。私が結構気に入っているテレビ番組のイタリアの『小さい村の物語』は、もろ故郷をテーマにしていますから、対談者の二人を含めた、日本の今やアメリカとの違いを感じます。

177 もうひとつ別な表現もできるんです。たとえば、アメリカ先住民は、グレート・スピリット(宗教における主神)が一人ひとりの個人に対して、それぞれ決まった仕事を与えていると考えています。ですから、まず何をしなければならないのかと言うと、自分の仕事はいったい何かということを見つけることなんです。...難問ですが、本当の仕事を見つけなければならない。人生のはじめのうちにそれを見つけなければならないのです。自分の真の仕事を見つけるのは難しいかもしれないが、一度見つけてしまえばあとは簡単なんだね。

→ この辺に書いてあることは、確実に『ギヴァー』との関連がありますね。

2010年12月15日水曜日

『野性の実践』 3

358 スナイダーは、「惑星本来の姿を求めて地球を見る訓練」を「精神の浄化」(p81)と呼ぶ。そして、遠くから離れて見ることが、そのまま最も近くの自己を凝視することにつながる、と言う。このように、物と心、現象と本質、裏と表、個別性と普遍性、差異性と同一性とを自由自在に見てゆく柔軟性が、スナイダーの生き方の特質である。

 実際、この柔軟性こそ禅修業の眼目にほかならない。

 そのほか、「雑用はまさに道である」(p277)とか、「本当に道をきわめた人、心の洗練された人は、日常的な事柄の中に喜びを見つける」(p277)とか、「誰でも、初めは道の上を歩かなければならない。脇にそれて野性の世界に入るのは、そのあとのことだ」(p280)といった言葉は、(十数年間におよび日本での禅修業中に)師匠や先輩から繰り返し聞かされたアドバイスの、スナイダー流の表現だろう。

359 山登りは「歩く禅」なのだ。歩くリズムによって、心身を一つにし清めてゆく修行である。スナイダーは言う。

 「それに必要なのは、ある種の自己放棄と直観力を養う術、つまり自分自身を空っぽにする訓練だ。優れた洞察力が身につくのは、持てるものすべてを失ったそのあとのことだ」(p50)

 こうした自覚に基づいて生活するなら、どんな営みもすべて修業である。問題は、まさにその生き方、ライフスタイルなのだ。

→ 私にとっては、週末の農作業です。まだ、「修業」とまでは言えませんが。

360 スナイダーは、「場所」の詩人でもある。しかし、その「場所」は単なる物理的空間ではない。「いま、ここ、わたし」の場所なのだ。臨済の言う「即今目前聴法底」(いま、私の目の前で耳を傾けているお前さん自身)はどうなのか、という問いである。だから、場所はただの客観でもなく、ただの主観でもない。それは、野性と同じで、「主体にも客体にもならない」(p329)とスナイダーは言う。

 最後は、スナイダー自身の言葉です。

10 私自身の仏教は、だいぶ古い形のものとなって、アニミズムやシャーマニズムにきわめて近くなりました。アメリカ先住民の宗教は、一種に民間神道と言えます。生きとし生けるものへの畏敬の念は、神道の考えから明らかに読み取れる部分です。もっと視野を広げると、さらに別の組織体が見えてきます。植物や動物の共同体、つまり「野生システム」として知られているものです...究極的には言葉自体も一種の「野性システム」であり、詩も同じ秩序をもつと私は信じています。

→ 限りなく、『アボリジニの世界』(や縄文時代の日本、アメリカ先住民たちが元気だったアメリカ)に近づいています。

2010年12月14日火曜日

『野性の実践』 2

351 近代西欧合理主義には、自我主義とならぶもう一つの特質、人間中心主義がある。つまり、人間は自然界の司会者という考え方である。これは近代西欧の自然観に明快に表れており、キリスト教的世界観から大きな影響を受けている。
 ・・・それが医学の進歩、機械文明、物質文明の発展、そして人類の幸福に貢献してきたのは確かである。しかし同時に、そうした生き方が世界各地に自然破壊をもたらし、地球の環境がいちじるしく悪化したのも事実だ。

352 デカルトの物心二元論は、心と物、見るものと見られるものを分離する。そして切り離したものを対象化する。森羅万象の有機的関連を断ち切り、部分とみなし、観察の対象とする科学的態度である。ただし、部分に注目しすぎると、全体を見失う。

 東洋的智慧の一つとして、「縁起」の思想があげられるだろう。つまり「相依相関」「関わり」の視点からものを見る態度である。

→ これは、近代西欧合理主義とは対極にある視点で、スナイダーはしっかり『華厳経』を読み込んでいたそうです。

 次に、スナイダーの特質である「視点」に触れておきたい。

 スナイダーの思想、ライフスタイルを貫く二極の視点がある。ユニヴァーサリティ(普遍性)とインディヴィデュアリティ(個別性)である。これは、スナイダーの先天的な資質に、修業で得た禅の智慧が裏打ちしたものだろう。

356 スナイダーは、「離れてみる眼」(巨視的視点・ユニヴァーサリティ)と「近づいてよくみる眼」(微視的視点・インディヴィデュアリティ)という2つの眼をもつ。そして、何より肝心なのは...一方的見方を排して、もう一つの立場から見ようとする。視点を一方に固定せず、二極のあいだを自由自在に動かすのだ。

 「視点を変えて、前景と背景とを逆にし、条件と生命を支えるものの側から見るならば、他の何百という目を通して、無数の相互関係が見えてくる」(p202)

→ ここで、訳者の重松宗育さんは、立花隆著の『宇宙からの帰還』を紹介し、「いつか宇宙飛行が禅の修業にとって代わる時代が来るかもしれない」と書いています。

2010年12月13日月曜日

『野性の実践』 1

 というわけで、昨日紹介した2冊の本は両方とも自分なりの「読み」を作り出していかないといけないわけです。しかし、その宿題が終わるまで、両方とも紹介できないというのではもったいないので、ゲーリー・スナイダーの本については、訳者が書いてくれていることを中心に紹介します。(長くなるので、3つに分けます。)


 まず、タイトルについて、

348 スナイダー自身が序文や本文中で説明しているとおり、「野性の修業」という訳が真意に近い。しかし、あえてそれを『野性の実践』としたのは、修行という言葉を古くさく感ずる読者がいるのを懸念したからにすぎない。

→ スナイダー自身の説明では、「実践の意味は、ものごとをよく見る努力、そして自己自身や現実に存在する世界にうまく適応するためのたゆみない努力、と解釈できます」(p11)になります。

349 スライダーにとって、野性とは「仏法」(ダルマ)に近いものだ。
  スナイダーは、早くから、近代西欧合理主義に対して強い違和感を抱いていた一人である。彼が疑問を感じたのは、その自我主義と人間中心主義に対してだろう。
  人間の理性を信頼するかぎり、「個」は確実な基本単位として重要な意味をもつ。そして、その個にそなわる意識は自我と呼ばれる。しかし問題は、その「自我」の中身である。

350 自我の情欲は自己中心性をもつ。それが自己主張を始めると、自我と自我との衝突に至る。それは個人と個人の対立から、団体と団体、民族と民族、国家と国家の衝突へとつながり、最終的には不幸な戦争へとエスカレートする。悲惨な歴史的事実が数々の証拠を残している通りだ。

  スナイダーはいう。「自我が占める領域はごくわずかなものだ。それは精神の入り口近くにあって出入りを監視する小さな部屋」(p41)にすぎないと。こうした自我の限界を知っていたからこそ、スナイダーは、近代西欧合理主義を超える新しい生き方を模索してきたのだ。その手掛かりは、表面的な近代的自我ではなく、その深層、無意識の領域にひそむ主体性にある。そして、その「無我」の主体性こそ本来の自己であり、真の主体だとスナイダーは気づいていた。だからこそ、禅の修業に長い時間をかけたのだ。

 「危機に瀕しているのは、ほかならぬ人間自身である。それは、ただ文明のサバイバルなどといった次元では決してなく、もっと本質的な、精神と魂の次元なのだ。人間たちは、自分たちの魂を失ってしまう危険に直面しているのだ」(p323)

 それゆえ、この精神と魂の危機を克服するための実践的な原理を、スナイダーは指し示す。「コスモポリタン的な多元主義と地域に深く根ざした意識、この二つの調和こそ重要である」(p84)と。これは、禅の精神を代弁するあの有名な言葉、”Think globally, Act locally”(思いは地球に、行いは地域に)を思い出させる。

→ 私自身、”Think globally, Act locally”が禅の精神を代弁している言葉とはまったく知らずに、80年代から90年代にかけては、そのことを実現するための一つの方法を提供するための活動をしていました。『地域からの国際化』という本の翻訳や国際理解教育センターを通した情報提供活動です。
 でも、スナイダーに言わせると、「『野性の実践』は、わくわくする野性体験でも、環境保護運動の努力でもなく、エコロジーの理論でも、役立つ行動主義でもなく、それ以上のものに携わることを示唆しています。自我の奥底に自分自身を自覚する方法を見つける努力をなすべきなのです」(p11)ということになります。

351 これは、「人間の本来の場所に帰ってゆくという感覚」(p280)なのだ。地域の「サンガ」の活動を大切にするライフスタイルである。

→ この辺は、まるで『アボリジニの世界』の中で書かれている内容とオーバーラップします。

2010年12月12日日曜日

『ギヴァー』と関連のある本 

 今日は、2冊紹介します。
 一冊は、ロバート・ローラー著の『アボリジニの世界』。
 もう一冊は、ゲーリー・スナイダー著の『野性の実践』。
 前者は、「夢」で引っかかった本でした。サブタイトルに、「ドリームタイムと始まりの日の声」とありましたから。
 でも、どうもこの2冊をほぼ同時に、『ギヴァー』のことを念頭におきつつ読んだことは何かの関連を感じずにはおれません。

 アボリジニは、オーストラリアの原住民のことです。
 世界最古の生活様式をもった民と言われています。
 何と言っても、定住せず、持ち物も最小限、近代人から見れば、異様な/信じられない生活スタイルを何万年も持続した民です。創世記(ドリームタイム)の語りと日常がかなり密接につながる形で生きてきた民です。“不幸にも”ヨーロッパ人が200年以上前に来て以来、殺戮と同化が図られ、伝統的な生活スタイルで生きているアボリジニは皆無でしょうが。

 500ページ以上の厚い本であることも理由の一つかもしれませんが、いつものように鍵となる文章をピックアップして紹介するには私の頭の中が整理できていません。(それは、私が『ギヴァー』との関連を整理しかねている、ということかもしれません。あらゆることがつながっているようにも思えるし、もっとしっかり選び抜く必要性も感じるし...)

 2冊目のゲーリー・スナイダーの本は、いまとなってはどういう経緯で手にしたのかは覚えていません。80年代の前半から、彼の名前は知っていました。アメリカ・ポートランド(オレゴン州)在住の私の友人でエコロジー運動というかエコライフを普及する活動をしていた人が、スナイダーの詩や考え方や生き方を活動の支柱のように位置づけていたからです。★
 スナイダーは、1956年から1968年までは、日本に生活の拠点(禅の修業を中心に、詩を書くことなど)をおいていた人です。
 こちらの本も、訳者が本の最後のページ(363ページ)で「本書はかなり難解だから、通常のように最初から頁を追って読むと、途中で挫折の恐れがなくもない」と書いていたことを実践してしまいました。

★ バイオ・リージョナリズム(Bio-region=生態地域)やウォーターシェッド(Watershed=流域・分水界)などがキーワードでした。両方とも、一つの流域(川や海?)を生活圏として、それを大切にする、ということだと思います。

2010年12月11日土曜日

明日からちがったあなたにであえるかも!!?

 協力者でもある横浜の渡邉美江さんが、以下の紹介文を送ってくれました。


読んだ後、暖かい気持ちでいっぱいになり、最後の情景が頭からはなれませんでした…

この本を読むうちに、どんどんひきこまれ、いつのまにか主人公ジョナスとともに、考え、悩み、冒険に踏み出していくような気もちになっていきます。

ジャンルとしては、近未来のSF小説ですが、毎日繰り返され、自分にとって当たり前に思っている世界を外から見たら?そんなことを考えさせてくれます。この本にあるようなことは、いつでも、どこの世界でも起こっていることかもしれません。

たくさんの人が、『ギヴァー』を読んで語り合うことが、これからの豊かで平和な未来をつくることにつながると思います。

2010年12月10日金曜日

『ギヴァー』と関連のある映画

 NHKのラジオビタミンの「暮らしスパイス」(2010/12/03 放送)で、映画エッセイストの永千絵さんが紹介していた映画についての紹介です。

 紹介された映画名は、「君を想って海をゆく」。クルド人★の青年が歩いてフランスまで来、海の向こうのイギリスまで泳いで渡ろうとする映画。

 永さんは、この映画を見て、「心の片隅に引っかかると、これからの人生違うんじゃないか。私も変わるかもしれない。みんなも変われるかもしれないというかすかな期待が持てる映画」だと思ったそうです。

 さらに、「楽しい映画もいいけど、“これは何だ!”と感じる映画。感じた後でゆっくり考えればいい」と言っていました。


 『ギヴァー』は、私にとってまさにそういう本です。

 感じたのは、最初に出会った2007年の3月6日でした。なんとか3年近くかけて再刊し、そして今年は丸々1年かけて考え続けています。その本が投げかけてくれるいろいろなことについて。

★★ まだ私が見えていない部分で、皆さんが気づいていることを、ぜひ教えてください。★★

 なお、映画「君を想って海をゆく」は12月18日から上映が始まるそうです。


★ クルド人は、国を持たない最大の民族と言われています。イラク、イラン、トルコを中心に住んでいます。

2010年12月9日木曜日

『ギヴァー』と関連のあるビデオ

 以下は、たまたま英文の『ギヴァー』の関連サイトで見つけたビデオです。実際(1967年)にアメリカのある高校で行われたことをベースに作られたものだそうです。タイトルは、「The Wave」。

パート1: http://www.youtube.com/watch?v=BVRXXbU-z7U
パート2: http://www.youtube.com/watch?v=GXi71XBdh1o&feature=related


 これを見ていて「青い目、茶色い目」を思い出しました。

http://video.yahoo.com/watch/1412566/4857610


 そういえば、昨日は「開戦記念日」でした。メディアでは、ほとんど扱われなくなって久しいです。 日本では、8月6日、9日、15日が事のほか大事にされ続けています。もちろん、それ自体が大切なことであることは否定しませんが、それらはすべてが始まってしまったことの結果です。その始まった原因の方を考えない限り、「2度と繰り返しません」を何度言ったところで、「再び繰り返す」ことは確実のような気がします。

 The Waveのビデオにあったように、その方が楽ですから。自分を持たない方が楽ですから。

 ジョナスのコミュニティのように職業から、結婚相手から、家族のメンバーまですべて決めてくれた方が楽ですから。


 ちなみに、12月4日~10日は、人権週間だというのはご存知でしたか?

 政府レベルの取り組みは、http://www.moj.go.jp/JINKEN/jinken03.htmlで見られます。各都道府県や区市町村レベルでもいろいろ取り組んでいるようではありますが、このチラシや扱うテーマを見るだけでも、「違うな」「ズレテイル」と思ってしまう人は少なくないのではないかと思います。(もちろん、そもそもチラシや内容まで見る人が圧倒的に少ないのが現状だとは思いますが。) いったい、このための公費はどれくらい使われているんでしょうか?? より効果的な方法は多様にあるにも関わらず......

2010年12月8日水曜日

『夢に迷う脳』 5

 今回のテーマは、夢はカオス(論理立てできるものではない!)であり、脳の健康にも、身体の健康にも一番いいのは十分な睡眠をとる、ということです。

313 非意識的な心は自分の内面を見つめるだけでは永久に知るすべがないのだ。この原則は、フロイト一派の浅はかさをいっそう浮き彫りにする。フロイトは「無意識」が内省によって観察されえると信じていた。自由連想法に熟達した精神分析家の助力があれば、人は奇妙な夢の起源を、抑圧された本能的な欲望にさかのぼることができるとされた。今では夢が単に脳の化学作用から生じるとわかっているが、フロイトは夢に取って付けたような説明(そのほとんどは性的なもの)を与えて、野蛮なよろいを着せてしまったのである。フロイトは、夢を「無意識へ至る王道」だと言い切り、実際に夢に関与するもののうち、意識上に現れるのはごくわずかな部分でしかないという事実を認識し損ねてしまった。

→ かなり強いフロイト批判ですね。

317 もし聖書の宇宙論、ニュートン力学、フロイトによる精神分析 ~ これらはすべて厳格な決定論の形式を保持しているが ~ を放棄するとしたら、その後釜に何を据えればよいのだろうか? ひとことで答えるなら、創造性と自由はどちらも無秩序性に依存している、ということになる。とりわけ無秩序は、脳機能の本質的な側面である。

319 夢のどの部分が決定論的であって、どの部分がそうでないのだろう? 唯一の答えはカオスである。複雑系 ~ 心脳はまさに複雑系である ~ はすべて、カオス(予測不可能性)と自己組織化(秩序)の狭間の、不断かつ劇的な相互作用によって特徴づけられる。

322 心脳パラダイムによって、心理学、精神分析、神経生物学の統合が進む。

328 心脳が自己治癒能力を持っており、心身の状態を変えることで治癒能力を操れるということだ。

330 健康の実践としては、睡眠がもっとも基本的だ。健康促進のためにまずできることは、自分がどれだけの睡眠を必要としているかを見定め、実行することである。心脳は常に自らを調整すべく変化する。あなたにできる最善策は、心脳の自己調整機能を働かせること。実際に睡眠がどれほど必要なのか正確に見きわめ、その分ぐっすり寝ることだ。

352 睡眠の話を要約すると、結局は脳がいちばんよくわかっているのだ。何が必要で、それはどうすれば得られるのか、そしてその要求が満たされたらどうすればいいのか、脳は知っているのである。脳の、脳による、脳のための睡眠なのだ。同様に睡眠は身体にもよい。

411 薬はできるだけ使わない!!

2010年12月7日火曜日

『夢に迷う脳』 4

 今回は、情動(感情)の大切さについてです。

216 ヒトは生まれる前にレム睡眠に似た状態の中でかなりの時間をすごすものである。最新の技術を用いれば、わずか20週齢の胎児でさえ、その眼球運動を観察することができる。

219 赤ん坊は生まれながらに情動を示すさまざまなレパートリーを持ち合わせている。こういった行為は生まれるよりもかなり前から、レム睡眠の間、自己活性化した脳によってプログラムされているのだ。

220 夢を見るからこそ学習できる

227 なぜ、科学が情動と向かい合うことが重要なのか? それは、感情が思考に影響を与えるだけでなく、知性とは独立した世界を知る非常に大事な手段だからだ。

 (この後の部分で、夢にまつわるフロイト批判が書かれている。)

233 感情は自分だけに向けた信号ではなく、私たちの心脳状態を他人に伝えるメッセージであり、メッセージは行動としてコード化されているのである。情動は、近づきやすさ、親しみやすさ、愛想のよさを、言葉よりもしばしばはっきりと直接的に伝える。親しい関係になると、情動を抑制するものはなくなる。情動こそ親しい人間関係を築く要素なのだ。

 情動の種類:怒り、不安‐恐怖、恥じらい‐罪の意識、悲しさ、喜び‐高揚感、愛情‐性愛、驚きなど。

238 情動はどこからやって来るか? 情動はあらゆる活性化した心脳状態にとって欠くことのできない、独立した部分なのだ。夢の情動をもっと慎重に調べていけば、人間性の基盤となる側面への理解は一段と深まるだろう。

243 情動は何の役に立つのか? もしダーウィンが『種の起源』(1859年)の著者として名を馳せていなければ、『人間及び動物の表情』(1872年)と題された別の著書で認知され評価されたことだろう。情動は動物が他の動物に心脳状態を正確に伝える大切な信号だということを、ダーウィンははっきりと見抜いていた。

246 生物学におけるダーウィン進化論は、その後、大きく2つの道へと分かれていった。ひとつは分子遺伝学。もうひとつは、動物行動学だ。

→ 学ぶ時、情動・感情は無視されています。あたかも関係ないものが如く。でも、実際は大きく影響しています。そのことがわかっているなら、うまく活用した方がはるかに効果的な学びが得られます。
  なお、科学も情動を遠ざけてきたようです(226ページ)。

2010年12月6日月曜日

『夢に迷う脳』 3

 今回の主なテーマは、記憶と夢との関係についてです。

158 1960年代、精神分析を信奉する人たちの多くは、生とは、あらかじめ心の中に書き込まれたシナリオを演じることだと信じていた。しかし今日となっては、ほとんどの精神分析学者は次のように主張するだろう。私たちは、生を持続していく中で新たな場面に対処するために過去の場面を引き出しながら、自分自身でシナリオを書いているのだ、と。ここで参照されるこの場面こそ、私たちの記憶そのものである。フロイト自身が主張したように、重要なのは、実際に何が起こったかではなく、起こったことのうち何を覚えているか、なのだ。

→ 意識的に(あるいは、無意識も含めて?)自分が覚えている(=記憶している)ことこそが重要!!

171 記憶それ自体を観察することはできない。記憶は一連の電気パターンとして脳の中に蓄えられる。想起とは、ひとつの行為 ~ つまりその一連の電気パターンを活性化することである。

 記憶は潜在意億と顕在記憶とに分けられる。潜在記憶は認識のみに関係している。顕在記憶は活発な想起と関係している。ほとんどすべての記憶は、常に完全な無意識状態にある。記憶とはほとんど無意識な行為である。この、いわゆる「手続き記憶」というものは、運動パターンのように比較的に自動的なのである。

 ならば記憶を思い起こせない時、それらはいったいどこに蓄えられるのだろうか? 記憶は脳全体に広く分散した神経活動のパターンとして表れるということがわかっている。これを裏付ける例として、たとえ脳の特定の部位に障害がおきても、ヒトや動物の手続き記憶までが消えてしまうことはない。

172 記憶を分散して蓄えることにかんして、もっと積極的な理由がある。情報をできる限り多くの文脈や技術と関連づけることができるのだ。どの文脈が将来的に必要となるかはいつも明らかとは言えないから、新しい情報をできる限り関連のある文脈と結びつけることが有益なのだ。

→ 人が記憶する仕組みは、図書館やコンピュータのファイリングとは根本的に異なるシステム。

177 夢の記憶機能とはいったいどんな点であろうか? 私たちは記憶を強化しようとして夢を見ているのだろうか? それとも忘れるために見るものなのか?

 まだ証明には至っていないものの、心脳がノンレム睡眠とレム睡眠の2つの状態を行き来する理由のひとつは、記憶を強化し再編成することだと私は考えている。

178 記憶を長期的に符号化するために睡眠を必要とする、という説はまだ確定的ではない。とはいえ、このことを支持する証拠は数多くある。私たちは、眠ることによって、夢を見ながら一日の記憶を再活性化する。その時、心脳状態に変化が生じる。夢は記憶を短期記憶から長期記憶へと変化させる。これはおそらく、睡眠中に偏在するアセチルコリンによるものだろう。

180 夢には、記憶の「固定」「分散」「超連合」「手続き化」の機能を強化する特徴がある。

2010年12月5日日曜日

『夢に迷う脳』 2

135 見当識 ~ 「自分はどこにいるのか?」「自分は何者か?」 ~ は、極めてもろいもの ← これがアルツハイマーや痴呆症の原因になっている。

136 心と身体は、社会とは完全に異なる時計によって管理されているのだ。適切な方向づけを行うためには、外的な社会時間と内的な脳時間とを、はっきり区別する必要性がある。社会時間とはきわめて専制的とも言える。一方、内的な時間である脳時間は生得的なものだ。気分、やる気、創意なども、内的な時計が時間を計っているのである。

→ この2つの時間をしっかりわきまえることは、とても大切なことだと思いました。

 心脳が場所、時間、行為を表現することは、心脳がどのような状態にあるかによって、完全に左右される。ドラマの筋立てのように、この3つの要素が一致した状態を維持するためには、ドラマの演技よりもずっと、繊細な技術が必要だ。心脳は見当識を供えるよう私たちに働きかけるばかりか、意識やふるまいのどんな些細な局面にも、もっと重要な[生存に不可欠の]奥行きを与えているのである。私たちは場所と時間を正しく把握せずして何事もはじめることはできないのである。

141 フロイトの主張は正しかった。要するに夢は、本能(性や攻撃性)、感情(恐れや怒り、愛情)、生活(場所や、人物、時間)について、何か重要なことを物語っているのである。覚醒、睡眠、夢の研究を通じて、もっとも基本的な機能 ~ 見当識 ~ を使えば、生命に重要なこうしたデータが、どのようにプログラムされ、統合され、維持されるかという理論を導き出せるはずである。

147 フロイトの間違い ~ フロイトは異常な夢ほど意味があると考えていたので、夢を理解するには自由連想による解釈が必須だとした。結果フロイトは、夢のデータを誤った方法で扱うことになってしまった。私たちが掲げる新しい理論では、顕在内容(フロイトは軽視し、私たちは価値があると見るもの)と潜在内容(フロイトは賛美し、私たちは雑音だと見るもの)を区別する必要はない。

148 夢のどんなところが、最も夢らしいといえるか? 夢の何がいちばん奇妙なのか? 不連続、不調和、不確実なところ...これらはみな見当識が混乱している時の特徴である。場所、人物、時間の設定に混乱が生じている。その理由とは、夢状態の心脳が、覚醒状態の心脳とは異なるからである。夢は器質的な精神疾患だ。

153 夢を見ている時、私たちは精神疾患者の心脳状態を体験しているわけである...夢を見るとは、心脳にやがて生じる老化や衰退という一種の精神錯乱を、前もって体験していることなのだ。

2010年12月4日土曜日

『夢に迷う脳』 1

 これも、『ギヴァー』の内容に関連した本とは言いがたいので、書名で紹介する形を取ります。サブタイトルは、「夜ごと心はどこへ行く?」です。書いた人は、J・アラン・ホブソンで、睡眠研究界の第一人者だそうです。
 読んでもわからないところが結構あり、飛ばし読みもありますが、ヒットしたところを抜書きしました。


22 脳と心を切り離して考えることはできない、私はそう確信している。頭蓋骨の中にある物体としての脳と、誰にも観察できない第五次元に自分を漂わせている霊妙な心に、違いなどない。脳と心は分かつことのできないユニットなのだ。

 脳と心はひとつであるという私の考えは、自分が主観的に経験する、あらゆる意識状態の性質が、脳の状態によって決定されている、という認識から生まれるものだ。脳内の神経細胞の間で何か特定の活動が起きているために、私は夢を見るのだ。そして、脳の活動がこれまた特殊な方法で突如として変化するため、私は目覚めるのである。そこで私はこのユニットを「心脳」と呼び、その主要な活動様態 ~ 夢を見たり目覚めたりすること ~ を「心脳状態」と呼ぼうと思う。

 この考えは論理的で問題がないように思えるにもかかわらず、科学と人文科学の双方で異端とされている。多くの科学者は、脳を生物学的な中枢処理装置と見なし、心の存在を否定している。そして多くの人文科学者は、心をある輝かしい実体 ~ それ自体で存在するもの、つまり、いかなる物理的存在をも超越した、自覚を持った精神 ~ であると記述する。このように、人間は心なき脳、または脳なき心として描かれ、その二つは相容れることはないと考えられている。脳は身体を操作する ~ つまり、脳は見ること、歩くこと、食べ物を消化することを可能にする。一方、心は思考や人格を操作する ~ つまり、周囲の状況は人を考え、感じ、判断を下すことを可能にしている、といったように。

→ 『ガリバー旅行記』を思い出してしまいました。ガリバーは自分が来たもとの場所に戻りたくて、アカデミーの先生たち(いまの大学の教授たち)に尋ねます。しかし、みんな自分の狭い専門領域にこだわるだけで、ガリバーのほしい情報を提供してくれる人は一人もいませんでした。「専門バカ」の弊害は、すでにスウィフトの時代からあったのですね。(ちなみに初版は1726年ですから。17世紀の後半~18世紀の初頭にはそういう風潮はすでに風刺に価する状態としてあったことが伺えます。)そして、300年経ったいまも見事なぐらいに引きずっているのですから、すごいことです。

35 心脳状態という概念を用いることの最大の利点は、覚醒、睡眠、夢という経験を包括的に扱えることだ。 → 111ページの図を参照

54 睡眠研究により、もっとも深い眠りについているような時でさえ、脳は休むことなく情報処理を行っていることがわかっている...脳の大方の神経細胞は昼でも夜でも、四六時中発火しているのである。

55 まだまだ理解しなければならないことが山ほどある。脳内にはおよそ1千億個もの神経細胞があり、神経細胞一つひとつは一万個の相手と接触し、それぞれ一秒間に100個の情報を送り出している。情報の総量を控えめに見積もっても一秒間に10の27乗ビット分のデータ量に達する。気がおかしくなりそうな値である。

→ 宇宙と脳は、似ているというか同じだと言った人がいたと思いますが、まさにその通りなんですね。

56 睡眠の機能のひとつは、心脳が故障する可能性を減じていることにあるのではないか、ということだ。心脳も、ばね式機械と同じように故障がつきものだからだ。

→ ばね式機械と同じなのかどうかは疑問ですが、「故障はつきもの」というのは納得いく気がします。それを起こさないためにも睡眠がとても大切なんですね。

  「決定論」は、心脳とは葛藤のシナリオを必然的に再現するように運命づけられたものだとする、フロイトの誤った予測を招いてしまった。心脳パラダイムは決定論の本質は認めるものの、心脳は非常にやっかいなシステムのため、単純に繰り返すことなどできないと主張するものだ。心脳は絶えず新しい状態へ変化している。

57 私たちの脳と履歴は刻一刻と変化するため、まったく同じ情報を持った状態になることは二度とない。良かれ悪かれ、私たちは表象の内部貯蔵(これを記憶と呼んでもよい)を絶えず更新していく必要があるのだ。

→脳の状態は刻一刻と絶えず新しい状態に変化している、という認識はとても大切な気がします。固定化してしまうことによる弊害が、確実に教育の場で起こっていると思いますし、他の領域でも起こっていると思います。

 それをどのように処理しているのだろうか? 覚醒から睡眠、そして夢へと心脳が絶え間なく繰り返すことで処理しているのである。そこには情報を収集する面と、情報を処理する面がある。この情報サイクルは呼吸と同じように無意識に行われる。私たちはこのことをいちいち意識に留めておく必要はない。ただ起こっているのである。 →111の図

 精神医学は深刻な危機に陥っている。精神分析とは明らかに不首尾に終わった万能薬であり、また、薬物頼みの精神医学も明らかに万能薬のなり損ねである。そう、私たちは失敗に向かって突き進んでしまっている。 → いまこそ、精神分析と薬理学と脳の認識と科学の統合が求められている、とホブソン氏は強調しています。

111 心脳空間プロット = AIMモデル


 → この図は、この本の中の一つのハイライトと言えるかもしれません。
 右上の覚醒状態と右下のレム睡眠の間を行ったりきたりするというモデルです。詳しくは、ぜひ本文をご覧ください。

2010年12月3日金曜日

『やさしくわかる夢分析』

 ここしばらく夢をテーマにした本を読んでいるので、気分はジョナスの夢の中です。と同時に、自分の夢についても考える機会になっています。

 前回は、80ページの図だけしか紹介しなかった『やさしくわかる夢分析』(山根はるみ著)でヒットした部分を、今日は紹介します。(秋山さと子著の『心って なに?』もそうでしたが、『ギヴァー』と関連のある本とは位置づけていません。夢から発展した私のブック・プロジェクトのメモ代わりに書き出しているという感じです。しかし、完全に関係がないとも言い切れない部分があるので、このブログに書いています。またこれらだけを読んで感じたことや考えたことと、アラン・ホブソンなどの夢を脳科学の視点で見ている人たちやロバート・ローラーの『アボリジニの世界』などを読んだ後で受ける印象はかなり違ったものになることも書き添えておきます。)


11 将来の夢も、睡眠中の夢も、共通なのは「イメージ」です。イメージが大切にされることで、何か新しい現実が生み出されます。ここに同じ字を当てる共通性があるのかもしれません。夢の構成要素はイメージであり、イメージには不思議な力が備わっているといえるでしょう。

→ 前向きでとてもいいです! 最近流行っているイメージ・トレーニングもこの範疇に入るのでしょう。

16 夢は生きていて、私たちの心のあり方に伴ってたゆまず変化をとげています。
 ユングによれば、私たちが生きていくうえで、夢は必要不可欠な存在です。
 意識することすらまれですが、私たちは“人工”ではなく“自然そのもの”です。だから生物的生命体として、日の出とともに起きて、暗くなったら寝る、あるいは食べたいときに食べるという野生動物と同じライフスタイルが本来の自然の姿なのです。
 ところが文明を築き、脈々と文化や伝統を受け継ぎながら私たちは、いつの間にか時間に合わせて暮らすようになりました。目覚ましがけたたましく響けば、起きたくなくても起きて仕事をし、昼時になればお腹がすいたような気にすらなります。外を歩けば信号や横断歩道の表示に従って歩かざるを得ず、「この道路は本来は誰のものなのか?」と叫ぶことすら忘れてしまったようです。
 こうして、自然に暮らすことができなくなってしまっている人間が、もっとも自然な状態に戻れるのが睡眠です。横になって身体を休め、自然を取り戻します。そして私たちは夢を見ることで、一日のがんじがらめにしばられた人工的思考方法から解放されて、何とかバランスをとっているというわけです。
 それが証拠に、夢の中での思考は、日常のものとはまったくかけ離れたものですね。

→ 日常のものとはまったくかけ離れているかどうかは疑問がないではありませんが、本来のあり方にいちばん戻っている状態であることは確かな気がします。そして、その部分も日中の「がんじがらめにしばられた人工的思考法」の影響で大分おかしくなりつつあるという感じです。両者はつながっていると思います。

20 ユングは言っています。「夢を見させられている。だから問いかけなさい。『この夢は意識のあり方の何を補おうとしているのか』」と。(さらには、「夢は私たちついて何かを語っていて、自分自身を見つめるための手がかりであり、そして内的に成長するためにあるのだ」と ~ 43ページ)こうした経験から、夢には贈り主がいるのだと、今となっては確信を持っていうことができます。そして、どんな夢を贈り届けてくれるのかについては、私たちの意識のあり方に左右されています。

→ この辺については、後で紹介しようと思っているアラン・ホブソンの説などとは大分違っています。

22 意識と無意識
 現実の生活を送るに当たって、欠かせないのが意識です。意識があればこそ、人間はいつも真なるもの、善なるもの、美なるものを求めて生きているのであり、社会の調和が保たれているわけです。
 しかし、人間そのものはまったく真である、善である、また美であるとはいえません。しかも諸行無常、人間を取り巻いている現実はいつも流動的です。そうした中にあって、その人の意識的な態度とは相容れないもの、知的には容認しがたいものについては、そのときの感情体験とともに無意識下に落とし込まれます。
 この個人の意識としては認めることのできない、無意識に閉じ込められた心の内容物を、臨床心理学者ユングは「個人的無意識」と呼びました。無意識に抑圧されてしまった内容物がコンプレックスの正体であり、夢では「影」となって他人の姿で表されるわけです。

→ この辺に関しても、ユング移行の脳研究(科学)の解明によって新たに提示されているアラン・ホブソンらの主張が気になってしまいます。
 ひとつの考え方を受け入れてしまった方が楽なのかもしれませんが、複眼思考でいきたいと私は思います。自分がよりよい選択を下せるためにも。

30 夢を記録することの難しさ
 書き取らないと、夢は雲散霧消してしまうのです。
 記憶ならば、何か手がかりがあれば、そこからたどっていくことで目的のことが泥縄式に引っ張り出せます。記憶がこのような仕組みを持つのは、記憶が意識の産物であり、意識は時間や空間でつながっていて“直線的”だからです。
 これに対して夢の世界は、時間も空間もない“アナログの世界”です。
 夢の世界は四方八方へどんどん広がっていきます。そうした意味で、夢を書くのは、なかなか骨の折れる作業となります。記憶のようなストントした一方向での完結ではないのですから、無理もありません。

→ この点は、私自身が常日頃感じていたことと同じですから書き出しましたが、どうも人によっては結構覚えていて、容易に書き出すことができる人もいるようです。慣れというか練習の部分もあるようで...

204 ユングの夢の公式
① 夢は、意識的状況に対する無意識の反応を示す
② 夢は、意識と無意識の葛藤から生じた状況を示す
③ 夢は、意識的態度の変容を目指す無意識の傾向を表す
④ 夢は、上記以外の意識との関係ではなくて、まったくの無意識の過程を示す

→ このユングの名詞形の「夢(Dream)」と異なり、いま読んでいるアラン・ホブソンの『夢に迷う脳』やロバート・ローラーの『アボリジニの世界』は、現在進行形の夢見(Dreaming)がテーマなんです。前者は脳研究の最先端の部分を紹介してくれている本であり、後者は(現代人には想像もできない)人類最古の生き方を貫いていた人たちのあり方を紹介している本です。

2010年12月2日木曜日

『心って なに?』 2

『心って なに?』 の続きです。

23 自分の秘密の部屋を持つこと、そして、その大切な心の部屋を抱えて、自分の考えと判断で生きること、それが2本の足で大地をふみしめて生きる、自立した人間のあり方なのだと思います。だから自分の秘密を持つことを恐れないでください。それはあなたの心なのですから。そして、いつもその心をふり返って、自分を失わないようにしてください。
 大人になるということは、ただ正直に、いつもあけっぱなしで裸のまま生きることではありません。大人は嘘つきで、適当に妥協して生きているようですが、それは自分と他人の区別を知っているからです。
 しかし、もう一度、ただペルソナだけの心のない大人にはならないでくださいね。

→ 秋山さんも再確認してくれていますが、仮面の部分を本当の自分と思い込んでしまうと、いろいろな悲劇を生み出すわけでしょうね。

27 男性が心の奥に、自分の魂のようなアニマのイメージを秘めているように、女性もまた、心の奥の暗い無意識の世界にとり残された男性のイメージを持っています。それがアニムスです。アニマという言葉は、魂、風、息吹などを意味するラテン語ですが、アニムスはその男性形です。
 アニマは普通、男性には欠けているやさしさや愛の心をもたらしますが、アニムスはその反対に、女性に決断力や勇気を与えるのです。(以上のようなプラス面だけでなく、マイナス面も同時に兼ね備えているようです。たとえば、アニマには気の弱さ、アニムスには疑い深さや横暴さなどが含まれます。物事には、すべてプラス面とマイナス面の両面があるのでしょう!)そして、男性も女性も、それぞれのアニマ、アニムスに導かれて、より完成した自分自身に近づきます。

33 私たちが自分の心を知り、人格のすべてを生かして毎日を送るためには、これらアニマ、アニムスを無意識の世界からひき出して、明るい意識のもとでよく見つめ、その性質や役割を知らなければなりません。そうして初めて、人はなぜ生きているのか、生きがいとはなんなのか知ることができるでしょう。そして愛の神秘に触れることができるでしょう。
 心の中に住む異性を大切にしてください。そして、愛とよろこびに満ちた人生を送ってください。

→ 「心の中に住む異性」という捉え方は、私にはピンときません。多様性や異なる視点を大切にするというなら賛成ですが。

45 人はよく心にもないことを言ったり、したりしています。自分の知らないところで、何かが起こっているからです。私たちがふつう心とよんでいるものは、全体の心の動きのほんの一部ではないでしょうか。
 ユングは、自分ではっきりわかっているところを意識の領域とよび、その中心にはエゴ(自我)があって、わかっている分だけをコントロールし、自由な意志によって、ものごとを選択したり、決定するものと考えました。
 自分のうちの無意識の世界に住み、エゴの意志を超えて働きかけてくるもう一人の自分。ユングはこれをセルフ(自己)とよびました。セルフは、意識も無意識も含む心全体であり、その全体を司る中心であり、しかも心の外と内との2つの領域のバランスをはかる役割をもつものです。

47 セルフは、ふだんは無意識の中に隠れていて、見ることも感じることもできませんが、意識の世界と、夢となってあらわれる無意識の世界とのバランスをとり、人間に生命力を与え、秩序ある生活に導く役割を持っています。

→ これまでに登場したシャドウ(影)、ペルソナ、アニマ・アニムス、意識と無意識なども含めて、この辺の関係をわかりやすく図化すると、『やさしくわかる夢分析』(山根はるみ著)の80ページ(=以下)の図になります。


 人間はその生涯の中で、しだいに心の動きを明確に知るようになり、中心核のセルフに近づこうとするのです。
 仏教では、この心全体の秩序を悟った人を如来とよびます。如来という言葉は、ものごとがかくの如く来たり、かくの如く去る、という原理を知る人のことを言うのです。

→ この最後のところ、なんかわかったようで、わからない部分が残ります。いっこうに、自分がセルフにも、悟りにも近づいていないからかもしれません。

2010年12月1日水曜日

『心って なに?』 1

 『ギヴァー』と関連のある本と位置づけられるのかどうかは定かでありません。
 タイトルは、『心って なに?』(秋山さと子著、ほるぷ出版)です。

 ちょっと夢とは関係のないタイトルのようですが、夢についてたくさん書いている人のわかりやすい本(絵本仕立て)だったこともあり、最初に読んでみました。

 長いので、2つに分けて紹介します。


5 シャドウ ~ 自分になれなかった自分
 夢の中にでてくる...あなたにとってこわくていやな連中を、ユング心理学では、シャドウ(影)とよんでいます。
 「なんだか自分が思うようにならない」「心の中にもやもやしたものがある」 それはきっと心の中の薄暗いところにひそんでいるシャドウ(怪獣たち)のせいではないでしょうか。

→ モーリス・センダックの絵本『かいじゅうたちのいるところ』を思い出してしまいました。

7 誰でもいやなもの、嫌いなものについては考えたくないので、シャドウはいつも忘れられています。よくわからないことや、自分に都合の悪いものは、できるだけ意識の世界から追い出して、いつまでも忘れていられる無意識の領域に押しこもうとするのです。
 心の旅をすると、たいてい1番先に出合うのが、これら無意識の世界で、日の目も見ずにうごめいているお化けのようなシャドウたちです。(それらは、あなたがよく知らないもの、苦手なもの、不得意なものなどです。)

→ 夢の中には、そういうものも現れるとされているようです。

11 自分ではなかなか気がつかない、自分自身の欠点でもあるシャドウを知る手がかりの一つは、神話や昔話に親しむことです。
 シャドウの中には鬼のような敵ばかりではなく、自分を助けてくれる味方もいるのです。
 たとえば、桃太郎のお供をする犬や猿や雉は、まだ十分に発達していない桃太郎の心の働きが昔話の中で動物の姿をとってあらわれたものと考えることもできるでしょう。桃太郎はまわりのものをよく見分ける感覚は持っていましたが、これにやさしく暖かい感情をあらわす犬や、人間になるには毛が3本足りないけれど、どれでも動物の中では思考的な猿、そして、矢のように飛んで敵を偵察する直感を示す雉に助けられて、鬼ヶ島を征伐しました。犬も猿も雉も、それぞれこれから育つ心の働きで、桃太郎のシャドウであるといえるでしょう。

→ こういう解釈もあり得たんですね。 私がこれまでにおもしろいな~と思った桃太郎の解釈というか解読は、外山滋比古著の『「読み」の整理学』(ちくま文庫)のエピローグ「モモタロウ」解読(214~218ページ)でした。

15 大人になるということは、それぞれ違う環境に育ち、違う考えを持った人たちの間で暮らすことです。
 子供時代には、みんな一緒に楽しく遊べたのに、大人になるとそう簡単にはいきません。自分と他人の区別がますますはっきりしてくるからです。誰もが自分の考えを押し通そうとすれば、そこら中で他の人とぶつかります。そこで大人は社会を上手に動かすために、それぞれ仮面をかぶって生きているのです。
 ユングはこのような仮面をペルソナとよびました。いつも自分をむきだしにして自分を傷つけたくないし、また、他人も傷つけたくない。そんなときに人はペルソナをつけます。それは他人との距離のとり方です。

19 ペルソナは人生ドラマの小道具として仮面や衣装です。それは社会の中でうまく生きていくために必要なもので、役割が変わるたびにとりかえるものです。しかし、大切なのは、そのうしろにいるあなた自身の心であることを忘れないでください。

→ この辺、納得する部分もあるし、また全面的に賛成してしまうと、疲れるよな~、とも思います。仮面であるペルソナはたくさんあっても、心はぶれない方がいいということですね。

19 心の奥からまいあがる感情というものは、なかなか言葉ではいいあらわせません。筋をおって説明することもできません。
 夢はその気持ちを、ドラマの形にしてあらわします。悲劇や喜劇のように、涙や笑いを誘い出し、一口にはいえないような矛盾した心の内容を、ストーリーの形で感動をまきおこしながら伝えてくれるのです。
 夢は自分一人で、いろいろな役を演じるドラマです。自分が作者で脚本家、演出家で配役も自分で決めます。そしてしばしば自分が主役を演じ、他の自分の分身たちを相手にドラマを作りだします。そのうえ、それを自分で見るという観客の役割までする、自分の一人芝居です。そこで演じられる主題は、日常のちょっとした気持ちの行き違いからくる心の揺れから、壮大で神話的な雰囲気をもった古典演劇のようなものまであります。

→ この夢の捉え方、誰でもうなずける部分があるのではないでしょうか。