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2011年4月25日月曜日

なぜ『ギヴァー』を復刻したのか?

 1ヶ月半前の地震と津波、そして現在も進行中の原発事故は、予想をはるかに越えるものでしたが...
 「常日頃私たちが当たり前と思っていることが、実は当たり前ではないんだ」「他の選択肢もあり得るんだ」ということを考えるきっかけに最適の本だと思ったからです。

 当たり前の中には、いろいろなことがあります。たとえば

・ 2週間前と昨日の選挙に代表される政治のあり方(=政治家のあり方、私たちと政治との関わり方)
・ 原発が作り出しているエネルギー(および化石燃料が作り出しているエネルギー)に依存する形で成り立っている私たちの日々の生活
・ ごみをたくさん出すことで成り立っている私たちの生活
・ 仕事でのものごとの決め方・やり方、そして人間関係の築き方
・ 家庭でのものごとの決め方・やり方、そして人間関係の築き方
・ 地域でのものごとの決め方・やり方、そして人間関係の築き方
・ 学校で日々行われている授業のやられ方や人間関係の築き方

要するには、個々の組織すべてと社会全体の目的と、その目的を実現するための手段を考え直すきっかけを与えてくれると思ったからです。

 天災の地震と津波からの復旧・復興(余震はまだ続いています!)と、ほぼ人災といって間違いない原発事故およびその処理は現在も進行中でありますから、「常日頃当たり前と思っていること」を考え直すいい機会だと思います。(もちろん、避難されている方々、放射能汚染の危険にさらされている方々、経済的な打撃を受けている方々たちが一日も早く安心できる状態に戻れるようにすることは前提ですが。)

 ジョナスは、自分のコミュニティがしていることのおかしさに気づき、そしてそれを修正・改善するために自らがとれる最善と思えたアクションを起こしました。私たち一人ひとりもジョナスと同じことをすることが求められているように思えたからです。

1 件のコメント:

  1. 島津やよい2011年4月26日 18:44

    こんにちは、訳者の島津です。
    私も現在の状況について、ジョナスのように考え、気づき、行動しなければならないと思います。
    私がいま『ギヴァー』からもっとも強く感じとっているメッセージは、「社会の都合によって人の生命を脅かすようなやりかたは絶対に止めなければならない」ということです。
    私たちも覚醒後のジョナス同様、あの「解放」をおぞましい殺人行為だと感じました。そして普段は、「社会の都合で人を殺したりしてはいけないなんて、あたりまえのこと!」と思って暮らしています。ところが、このもっとも大切な約束事が日本ではちっとも遵守されないことが、今回の原発人災で明るみに出ました。
    「フクシマ50」などという表現によって現場で作業している人たちを英雄視し、避難させるべき人たちを放置し、危険な地域で学校を再開し、子どもたちの生命を危険にさらしたまま、日本社会(原発行政だけでなく、私たち自身を含めて)は「収束と復興」に向けて話を逸らそうとしています。こんなことは絶対におかしいです。被ばくしていい人間などいません。
    しかも、このばあい「社会の都合」どころか、問題の根源は政官産財学のいわば「原発シンジケート」(お金に困って原発を建設させられてしまった自治体も含めて)の利益なのですから最悪です。
    人間の、とりわけ子どもの生命を脅かす可能性のある危険な技術が、なぜ使われなければならないのでしょうか?「エネルギー問題」「経済成長」など、すべて嘘つきどもの作り話にすぎません。
    ジョナスは記憶の力をとりもどすことで、「解放」の非人間性を知りました。そしてその後は、どれほど孤立しようとも、「社会を構成する要員」ではなく、「人間」のスタンスに立とうとしたのだと思います。
    私も彼の勇気を思いおこして、原発=核なんて技術の名にすら値しないたんなる殺人装置だということを訴えたいです。そして、いまも多くの人が放射能の危険にさらされていることについて、強い憤りを覚えます。福島原発における作業についても、「だれかが止めなければならないんだからしかたがない」などと言いたくないです。どんなに「バカじゃないの」「知らないの」と言われても、「本当に人間の手でやらないと無理なの?」と問いたいです。

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