★本ブログへのご意見・ご感想などは giverprojectjapan@gmail.com までどうぞ。


2012年8月31日金曜日

色と記憶のない世界は高齢者の世界?


ある人と話していたら、かなりの年齢になると色や記憶が薄れやすいという話をしていたので、ビックリしてしまいました。(信憑性を確認したわけではありませんが、ここではあくまでも知人の体験談として紹介します。)

もちろん、高齢者の人がみんなそうなるわけではないと思いますが、その話を聞いていて、「それって、『ギヴァー』の世界そのもの!!」と思ったのです。

作者のローリーさんは、色や記憶が薄れる高齢者にとってやさしい世界を描いたのでしょうか? 上のような事実を知った上で??


「では、高齢者がリリースされる原因というか、根拠はいったい何なのかな~?」とも考えてしまいます。

2012年8月23日木曜日

本(読むこと)の排除 = 思考停止



 日本子どもの本研究会編の『集団読書のすすめ』(1974年)の最初の10ページを読みながら、考えたこと(「考え聞かせ」)です。

10 “読書は本来個人のもの”なのか

 「読書は本来個人のものである」という考え方は、今日、日本における読書関係の研究者たちが、口をそろえて語るところである。
 まず、著者の書いた作品を、自律的にしろ他律的にせよ、読者が、読むという行為を行ったとき、読書は成立する。
 ところが、著者の書いている文章、読書の読んでいる文字に投影された“ことば”の規定は、決して著者や読者によって創造されたものではない。

11 これは、人類や民族が長い年月を経て、営々と築きあげてきた文化遺産なのである。
 したがって、われわれが一冊の本に接する場合、直接的には、ある著者の作品や論文に接しているわけだが、その背景では、間接的に、歴史的な文化遺産による媒介に依存し、媒介にひそむ歴史的思考とも対置している。 ← これを、意図的に廃止した『ギヴァー』の世界。
 とくに、この“ことば”を創造したり、質を高めたりする“場”を考えてみてもわかるとおり、集団の中から生まれている。いや、人間が集団的な生活を不可避的に要求されるからこそことばが生まれたともいえる。
 つまり、ことばは人間が時代とともに新しい発明や発見をして獲得した生産方法や、生活のちえ、あるいは創造した有形無形の文化遺産を維持・伝達する仕事を果たすかたわら、ことばを通して、より高い文化を多様に創造した。また、ことば、そのものをつかうという頭脳労働を歴史的継承してきたことによって、人間が、他の動物にみられない、考える力、想像し創造する力を集団的に蓄積してきたのではなかろうか。 ← 何不自由なく、それなりに高い文化を作り出し、そして維持しているかのように見受けられる『ギヴァー』のコミュニティだが、ことばやコミュニケーションの停滞や本を読むことの放棄などにより、「考える力、想像し創造する力」はかなり弱まっていると言える。せっかく蓄積されたものを、自らの判断で捨て去っている社会。
 したがって、人間が読書をするという行為は、一見、著者対読者の対話にみえても、それはもう一歩、ほりさげて考えると、単なる両者の平面的な対置の関係ではないように思う。
 論文や作品の創造とは、著者が常に先人たちの創造物にふれる中からある一定の認識を、著者自身が、自己の独創力と結合することによって、獲得することである。したがって、論文・作品の創造は、常に先人たちの文化遺産の継承として存在している。即ち、文化創造はいかほど有能な人間でも、たとえば狼に養われていて、他の人間と全く孤立した生活では決して生み出し得ないのである。 ← ある意味では、このような文化創造をストップし、ある段階で止まったままの状態を維持する社会としての『ギヴァー』のコミュニティ。

12 同様に、読者も人間である以上、歴史的空間的には、著者同様な過程を経て、多様な認識を獲得しているわけである。それゆえに、読書という行為は、現象的には、著者と読者という個人対個人の対置の形をとるが、読書を人間の本源的ないとなみとして捉えるならば、一個人の作品も集団的歴史的な“所産”になり、読書もまた歴史的集団的な“所産”のひとつのあらわれである。 ← その歴史的集団的ないとなみを、あえて排除する選択というのは、どういうことを意味するのか? それに至る決定を下す過程で、どのような議論が戦われたのかが、とても興味がある。
 単に、「家庭読書20分運動」に参加したり、その運動から抜けるような選択ではなく、自分たちの社会から読むという行為全般(ということは、書くという行為も??)を排除したのだから!!

 では、逆に、「読書は本来集団のものである」と果たして単純に言い切れるであろうか。
 私は、この即断についてもいささか疑問視せざるを得ない。
 なぜならば著者は、歴史的空間的な先人の所産を継承したに違いないが、やはり、その中で著者自体が、暗中模索の中で生み出した部分が加わって、新しい論文や作品=創造物を生み出している。それゆえ、この作品は、たとえよかろうが悪かろうが、けっして、他の人によって、とってかわることのできない、全く、著者自身の創造物なのである。← 作品一つひとつの個別性、というか個性がある。コピーしたものでない限りは。同様に読者の持つ思考形態は、だれもがとってかわることのできない存在である。だから、ある著者とある読者の出合いというものは、まったく、この世に一度しか存在しないという、特殊な出合いということになろう。← 二人の人が同じものを読んでも、異なる出合い/解釈が存在することを意味する。ということは、学校の国語の授業で正解が一つしかない授業というのは、いったい何なのか? 同じ人でさえ、時を変えれば、同じものを読んでも、解釈は違うのだから。

13 一言でいうならば読書という行為は、歴史的空間的には一般性=集団性をもちながら、一方では、著者と読者の出合いという特殊性=個別性をもった、二重構造の上で、はじめて成立するのである。 ← 「書く」という行為にも、まったく同じことが言える。「聞く・話す」も? 「考える」も? 「見る」も? 「感じる」も? 「つくる」も? ・・・・・

2012年8月22日水曜日

続・うっとうしい「残暑」


「残暑」「残暑」の連呼は、一層激しさを増しています。
当然です。昨日も、今日も、ほぼ年間最高気温が続いています。
「猛暑」「酷暑」です。熱帯夜も続いています。
「残暑」などという生易しいレベルではありません。(言っている人たちにとっては、これらは全部同じことなのかもしれませんが・・・)

なぜ、「残暑」を使う人たちは、違和感なく使っているのか、と思って「旧暦」について調べてみました。

日本の旧暦は天保暦である。ただし後述するとおり、現在旧暦として使われている暦は改暦前の天保暦とわずかに異なる。
天保暦は明治5年12月2日(1872年12月31日)まで使われていた。その翌日の12月3日をもって明治6年(1873年)1月1日に改められ、グレゴリオ暦(太陽暦)に改暦された。改暦は明治5年11月9日(1872年12月9日)に布告し、翌月に実施された。この年の急な実施は明治維新後、明治政府が月給制度にした官吏の給与を(旧暦のままでは明治6年は閏6月があるので)年13回支払うのを防ぐためだったといわれる。今なお占いや伝統行事や水産業[2]などで需要があり、旧暦もしくは陰暦の俗称で用いられている(改暦にともなう混乱の詳細は、「日本におけるグレゴリオ暦導入」の節を参照)。

ということで、ここでも政府のご都合主義が、原因でした。
後始末を一切しない、ところも今と同じです。
日本人の季節感を、少なくとも29日間ずらしたままが、もう140年も続いたままなのです。
それに対して、誰も何も言わないという極めておめでたい国なわけです。従順な国というか。(もちろん、「従順な国づくり」も国策として延々行われてきているのですが。)

そういえば、「旧正月」や「旧盆」と言って、前の暦に合わせたお祝いにこだわった風習は今でも残っています。ちなみに、私たちのお盆休みは「新盆」です。「旧盆」は約1ヶ月前の7月15日です。(旧盆は、まだ梅雨の真っ最中です。一番暑い時に休みを取りたいということで、みんなで「新盆」に日本中の休みを移動してしまったのでしょうか?)

お盆の方はみごとなぐらいに変えてしまったのですが、「立秋」「残暑」に関しては無頓着です。「残暑」に関しては、「新立秋」にあわせて言うのではなく、「旧立秋」=8月8日ごろのまま言い始めるので、おかしいことが続いているわけです。

ですから、「残暑」は1892年以前の人たちにとっては、立秋(8月8日頃)+29日ですから、今の9月6日以降になります。9月6日が立秋というなら、私たちが体感している季節感にかなりぴったりマッチしています。

この計算であっているでしょうか?

もし、「残暑」「残暑」と8月8日頃から連呼し続けたい人は、「夏休み」を「秋休み」に改名する運動を起こさないといけないと思うのですが、もちろん、そんな意識はありません。
ごちゃごちゃ何でもOKというのが、この日本という国です。

でも、役人の一か月分の給料のために、私たちの季節感をグチャグチャにされたままで、本当にいいのでしょうか? (個人的には、新暦・西暦しか頭に入っていないので、その問題はありませんが、「うっとうしい」問題は続きます! 29日も季節感がずれたままの多数の人たちと付き合わないといけないのですから。特にニュースのキャスターや気象予報士には閉口します。自分で考えることなく、誰かが書いた原稿を読み上げているだけなんでしょうから。)

2012年8月21日火曜日

「残暑」の連呼 で思い出したこと


「うっとうしい」プラス迷惑をこうむり続けていることが、他にもいくつか・・・・

① 選挙 ~ これこそ最大の「うっとうしい」プラス「迷惑」です。あれで投票行動を決める人がいたら教えてほしいです。やっている側も、そんなことがあり得ないことは知っているはず。
 確実に、「迷惑行為を平気でやり続ける候補者には、投票しない」という選択しかありえませんから!!!
 投票に結びつかないことが分っていて、なぜやり続けるのか? 
 不思議でなりません。防災行政無線の子どもの見守り放送=官制騒音公害と同じで、「予防行為」なのかな? 
 結果的に、自分たちのイメージを悪くしているだけなのに。
 本来、やるべきことを、やらなくしているだけなのに。

② 粗大ゴミ ~ あのボリュームを放置し続ける役所は、「癒着」とまでは言わないまでも、何らかの関係があることは明らかだと思います。

 しかし、もっとも頻繁なのは、「防災行政無線による子どもの見守り放送」です。(学校の長期期間中および土・日は解放されますが、他の平日は毎日2時半です。)
 ちなみに、府中市のHPには、これに関して以下のように書いてありました。

この呼びかけにより、放送の音量等でご迷惑をおかけすると思いますが趣旨をご理解いただきご協力をお願いします。

 これに、「協力はできません」「したくもありません」という選択肢は一切ありません。
 私は戦中派ではありませんが、戦時中はこういう放送も含めて、一方的な「協力のお願い」=「命令」がそれこそ頻繁に行われ、ちょっとでも受け入れない人や「反対」の「は」の字を言った人は「非国民」のレッテルを貼られたんだろうな~、と思ってしまいます。
 気をつけなくっちゃ!!

★ うちの自治体は、そんなアホなことはしていない、というところは、ぜひ教えてください。

 そういえば、『ギヴァー』のコミュニティは戦中の日本に似ているところがあるかもしれません。常に、住人は行動を監視しされ、ちょっとでもしてはいけないことをしたりすると、すぐコミュニティ放送でその行為がアナウンスされます(誰がしたかを言うことなく)。
 現代は、「防犯ビデオ」の名のもとにあらゆるところで、人の行動はウォッチされていますから、『ギヴァー』化は着々と進んでいると言えるかもしれません。

2012年8月19日日曜日

リーディング・ワークショップとの関連 8


『ギヴァー』の中で描かれていることと、読むこと、読むことについて話すこと/話し合うこと、読むことについて書くことなどが、関係ないようでかなり深いレベルでつながっている気がするので、両者の関連を引き続き紹介します。最終回です。

166 自分の考えをほかの人に伝えることをスタート地点にし(それは、あくまでもスタート地点にすぎません)、そこから元々の考えをより良いものにしたり、自分の元の考えを変えたりすることが大切だ、と教師はしっかり強調しておきましょう。

ここに書かれていることの大切さは、教育界はもとより、日本社会全体がおろそかにしていることだと思います。習慣や悪循環がはびこり過ぎているので。その点、今回の増税/消費税に関しては野田さんはじめ民自公は珍事件と言えます。現実は、2周遅れぐらいで遅すぎたのですが。教育界の場合は、その閉鎖性という体質のゆえに、2周~3周遅れがざらにあります。

それもこれも、「自分の考えをほかの人に伝える」というスタートを、ほとんどの人が切らないから、していることの見直しも、修正も起こりません。

ジョナスとギヴァーは、それをし合うことで、これまでには考えられなかったアクションに出ました。
しかし、それはコミュニティのほかの住民たちには、考えられないことでした。

私たちも、後者で行くのか、それともジョナスたちのアプローチで行くのか?

2012年8月17日金曜日

うっとうしい季節の到来


今日も暑かったです。

何がうっとうしいか?
梅雨よりも、猛暑や酷暑よりも、うっとうしい「残暑」「残暑」の連呼を聞かされる時期になりました。

熱中症で倒れる人がいたり、猛暑日だったり、熱帯夜が続いたり、7月から8月の一番暑い時期とまったく代わり映えがしない中、「暦の上で」を理由に、この時期から「残暑」を連呼するマスコミ人(アナウンサーや気象予報士)が少なくありません。

毎年、少なくとも8月末までは、この暑い状態が続きます。
9月も中旬までは暑いものです。

もう少し、「暦」ではなく、自分が体感している「季節」に応じた言葉づかいをしてほしいものです。
連呼する人たちの常識を疑ってしまうだけでなく、聞かされること自体「うっとうしい」ので。

連呼する人たちは、言うことで涼しくなるとでも思っているのでしょうか?
それとも、忠実に「暦」に反応しているだけなのでしょうか? 目の前の「季節」や「自分の体感」は脇において?
いったい何を目的に、連呼しているのでしょうか?
それとも単に、「習慣」で言っているだけなのでしょうか?
(聞かされる側も、黙っているところをみると、違和感はないのでしょうか?
それほど、「暦」というのは私たちの生活に根付き、かつ大切なものなのでしょうか? 体感している、この不快ともいえる暑さの中でも。)

これも、自らの判断を放棄したギヴァーの世界に通じてしまう一つのエピソードです。
それが、「うっとうしい」最大の理由です。

2012年8月16日木曜日

リーディング・ワークショップとの関連 7


『ギヴァー』の中で描かれていることと、読むこと、読むことについて話すこと/話し合うこと、読むことについて書くことなどが、関係ないようでかなり深いレベルでつながっている気がするので、両者の関連を引き続き紹介します。

188 私は、読んだ本について再話する(本の内容を自分の言葉で言い表す)のは「レベルの低い」理解だと以前は考えていました。しかし、「単に思い出すだけ」だと思っていたことを行う過程で、読み手がしなければいけない、この意味の再構築するという活動の複雑さに目が開かれてくるようになりました。当然、読んでいる内容をまとめたり、質問をしたり、解釈をしたりもしますが、実は読みながら意味をつくりだしているのです。

 子どもたちの理解(と誤解)を教師がしっかりと見据えていくと、子どもたちに読む時間と理解できる本、そして本の理解を促進するための話し合いを提供することは極めて重要なことだ、ということがすぐにはっきりします。本に夢中になって興味をもって読む読書家は、誰でもびっくりするような多くのスキルを必要としているのですが、実際に読むことで、それらのスキルを培っているのです。


→ 自分なりに解釈する、自分なりの意味をつくりだす、ということは読む時も、国語教育の中でも大切なことは言うまでもありません。でも、どうも日本の国語教育には「正解」の解釈が歴然と存在するようなのです。しかしながら、文学作品には(科学論文でさえ)、一つの正しい解釈は存在しません。読み手の知識や読むタイミングに、解釈やつくりだされる意味は大きく左右されるからです。

 しかし、よりよい解釈や理解は常に存在しますから、それを得るために話し合うこと、読み直すこと、そして自分の解釈や理解に修正を加えることがとても大切になります。

 そういうことが練習できる場としての学校であってほしいです。誰が決めたのか定かでない正解を得られた量で評価され続ける場ではなく。★ 


★ 私は、この「正解あてっこゲーム」は得意ではありませんでした。そもそも聞いたことや読んだことの記憶力がよくありませんし、教師の思惑を読むのも合わせるのも得意ではありませんでしたから。さらには、このゲーム自体意味を感じられませんでしたから、必然的に熱心には取り組めませんでした。いまの仕組みには、私のようにゲームに熱心に取り組めない子どもたちが、少なくとも半分以上はいる気がします。(ひょっとしたら、8~9割がた?)そんな状態で、ゲーム(今の学校教育あり方そのもの)をやり続けていいのでしょうか? 点数を上げられない人たちや参加すること自体を拒否する人たちを、「負け組」ということでレッテルを貼り、排除してしまっていいのでしょうか? 私には、究極の人材の無駄づかいというか、社会的な資源の無駄づかいとしか思えません。

2012年8月13日月曜日

説明文に正解はある?

そういえば、前回との関連で、今月はじめにある小学校の先生と以下のようなやりとりをしていました。(少し長くなります。)

Sさん:

きのう、T大附属の先生が、説明文の段落をバラバラにして、段落を正しく並び替えさせるという授業を実践していました。
指導目標は、「筆者の意図に気づく」で、すでに学習した説明文の文章構成や、前後のつながりを考えながら、段落を組み立てていく授業でした。

その先生は、「作者の意図を正しく読むことは大事。」「自由に読んで考えて、【何でもいいよ】と認めてしまう、今までの国語は変えなきゃいけない」と主張していました。
説明文においては、読み方に正解がある、でいいのでしょうか?


私:

説明文には正解があると思いますか?
子どもたちにとっては、どちらのアプローチで提示してあげるのがいいと思いますか?

説明文の段落をバラバラにして、段落を正しく並び替えさせるという授業を実践していました。
は、おもしろかった/参考になりましたか? 自分でもやりたくなりましたか?

(以下は、あえてコメントしませんでした: 本当に、実態は「自由に読んで考えて、【何でもいいよ】と認めてしまう、今までの国語は変えなきゃいけない」でしょうか? そうなら、私も国語嫌いにならなくて済んだのですが・・・・)


Sさん:

説明文に正解があるかは、どうか明確な答えはできません。
物語文と違って、正しい読みはあるようにも感じます。

T大附属の先生の、今回の授業は、やってみたいとは思いません。でも、児童の説明文を読み取る力や考えを根拠をもって伝える力は、かなり高いと感心しました。


私:

説明文に「正解」はあるか? 
物語、詩、絵本等のフィクションには「正解はない」、は学校では本当に受け入れられていることでしょうか? 説明文を含めて、ノンフィクションには「正解がある」はどうですか?

単純に、授業がしやすい、テストに出しやすい、というレベルではないでしょうか?

何を正解と捉えるかによると思います。
「筆者の意図」=「正解」であるならば、そうとしか言いようがないかもしれません。

でも、筆者がそもそも誤解している場合は、どうなるのでしょうか?
日本の教育書を読んでいると、そういうのばかりが目立ちますから、筆者の考えや意図=正解と言われても、私は納得できません。
書いていること自体が「間違いでしょう」、としか言えないものがほとんどですから。執筆者たちの「勉強不足」としか言いようがないもの、です。

その意味でも、読者側のもっている知識や体験に大きく依存するのが「読む」という行為ではないでしょうか?
すべての答えが、紙に書かれたインクにあるのではなく!!
『「読む力」はこうしてつける』の第3章で書いたことは、フィクション、ノンフィクションに限らず、すべてのこと(書いてあること以外のものも含めて)に言えると思います。

そして、限りなく「正解」を求めてというか、正解がある題材で行われるのが国語の授業です。
正解のないものは、授業にならないというスタンスで。

新聞記事の多くは、説明文ですから、実際に実験してみてはいかがですか?
子どもたちは、みんな同じ解釈をしてくれるか、どうか。
小2が読める新聞というのは存在しませんか?
説明文の題材として、使えるものにはどんなものがあるでしょうか?

私は、基本的に正解か、正解でないか、という議論は意味がないと思っています。
「読む」って、そんな単純なものではないと思っているので。
少なくとも確実に言えることは、「正解があっては、成長がない」ということです。
それで思考が止まってしまいますから、その先がないことを意味します。

そんなおもしろくないことに「読む」という行為をおとしめたくありません。


Sさん:

ずっと、学習指導要領や教科書ばかりを考えてきてしまったので、読書の価値観もつまらないものになっていました。

たしかに、書かれていること自体が正しいかを判断しながら読むことは、小学校ではしません。
そして、質問に答えながら読むことはあっても、質問しながら読むこともほとんどありません。


◆ ここまでのやり取りを読まれて、どんなことを考えられましたか?



2012年8月11日土曜日

リーディング・ワークショップとの関連 6

『ギヴァー』の中で描かれていることと、読むこと、読むことについて話すこと/話し合うこと、読むことについて書くことなどが、関係ないようでかなり深いレベルでつながっている気がするので、両者の関連を引き続き紹介します。

187 ほかのどんな効果的な読み方よりも、読み手は(ちょうど、書き手が書いたものを修正していくのと同じように)自分の理解を修正することを学ぶことが最も必要なのです。本を読んでいる時も、人生においても、私たちはみんな遭遇したことの第一印象に基づいて様々な解釈を行います。それをくつがえすような新しい面が現れても、第一印象から離れることのできない人がたくさんいます。もちろんこれは、本を読む時だけでなく、生きていくことにおいても理想的なこととは言えません。

→ 日本の国語教育の「読むこと」の領域の中に、この「解釈を修正する」や「読み直す」という考え方は含まれているでしょうか。
 国語の世界には「正解」が存在しています。でも、現実にはそんなものはありません。読む人により、読む時期により、解釈はどんどん変わります。
 第一印象に固執することのまずさと同じレベルで、「正解」に固執することは問題があります。
 『ギヴァー』の中で、それを唯一まぬがれたのが、ジョナスということだったかもしれません。
 私たちの社会の場合は、どうでしょうか?

2012年8月6日月曜日

リーディング・ワークショップとの関連 5


『ギヴァー』の中で描かれていることと、読むこと、読むことについて話すこと/話し合うこと、読むことについて書くことなどが、関係ないようでかなり深いレベルでつながっている気がするので、両者の関連を引き続き紹介します。(今回は、ちょっと長くなります。)

 日本中で読み聞かせが相変わらず流行っています。
 相当数のボランティアが学校や学校外で活躍しています。
 それ自体はとてもいいことなのですが、この本や『「読む力」はこうしてつける』を読んでいただけると、それだけではまったく不十分であることも理解していただけます。

 今回取り上げるのは、139~141ページで紹介されている語り合いの大切さです。

 あるゲストの教師がKaren Barbour作の『Little Nino’s Pizzeria(ニノのピザ屋さん)』という絵本の読み聞かせをしました。あらすじは、ニノはお父さんのピザ店で手伝いをするのが大好きでした。でもある日、スーツ姿のビジネスマンが店に現れ、その後しばらくして、お父さんの店はチェーンのピザ店に変わってしまいました。その新しい店で、ニノが手伝うことはできませんでした。

 しかし、最後にはお父さんは昔のピザ店を再開することに決めました。以前はお父さんの名前がついていたのを、今度は息子の名前にして・・・という、それなりにハッピー・エンディングのストーリーです。

 読み聞かせをした教師も、ストーリーのとおりを子どもたちが理解してくれればいいと思って読んだのだと思います。

 ところが、あるところまで読んだ時に、女の子が絵本のところまで来て、頭の上の部分がハート型にくり抜かれた小さな揺りかごが部屋の片隅に置かれていたのを指しました。その教師は、これまでに何回もこの絵本を読んできたにもかかわらず、はじめて気づかされました。「赤ちゃんの妹がいるのね?」と驚きました。

 そこから、自分の家でもお父さんは女の子とはまともに話そうとしないこと、息子の名前にはしても、娘の名前はまったく考慮しないこと、チェーン店に加盟する時お母さんに相談したような感じはなかったこと、もし相談していたら違った結果になっていたかもしれないことなどについて話し合われたのです。

 片隅でこのやり取りを聞いていた担任の教師は、「子どもたちは、どうしてこんなに夢中になって話をしているの? たかが本の話についてなのに」と反応しました。

140 しかし、本について語り合い、そこに書かれていることを考えるということは、まさに人間が人間であることの基本的な部分ではないのでしょうか?
 太古の昔、人間は話すことで地球を語り、太陽や星や雨を説明してきたのです。何世代にもわたり、親は子どもたちを集め、自分たちの物語を話してきました。話を理解し、それに意味を吹き込んでいくことがなければ、宗教や科学や歴史とはいったい何なのでしょうか?

→ 『ギヴァー』で描かれているコミュニティーは、このことがまさに欠落している社会なのでした。そして、いまの日本も限りなく弱まっている気がします。そうしないためにも、たんに読み聞かせっぱなしにせずに、読んだことについて語り合うことが大切ですし、不可欠なのです。

141 日々の様々な局面において、「なぜ、このことが起こったのだろうか? 他の方法はなかったのだろうか? これは、他のこととどのようにかかわっているだろうか? これが世界にとって、また自分にとってどんな意味があるのだろうか?」と考えて問いかけてみることは、まさに人間が生きていくことそのものではないでしょうか。
 子どもたちが本について考えられるようにしていくことは、まさに生きていくこと全体にかかわることであり、読むことを教えていくことの本質とも言えます。そして、本を読んで考えていくことを教えていく極めて効果的な方法として、読み聞かせを使っての話し合いがあります。

→ 繰り返しますが、読み聞かせだけでは抜け落ちてしまうことがあるので、それを話し合いによって拾うことが大切なのです。気づけるようにするというか。

 子どもたちが本と一緒に考え、本に書かれていることと自分とのつながりを見いだし、場合によっては本に書かれていることに反対することもできるようになるために、教師は本についての話し合いを使い、最終的には自分の考えたことを表現できるようにサポートしていきます。

→ 本についての話し合いぬきの読み聞かせで、これを実現しようと思っても、難しい部分があります。聞いたことを受け入れるだけの受け身的な人間を作り出しているだけとさえ言えるかもしれません。(さらに言えば、聞いていてどれだけのことが理解できているのかは、読み聞かせた人はもちろん、聞いている本人すらわからない、といった状況かもしれないのです。) 『ギヴァー』のコミュニティーでも、これはやられていません。だからこそコミュニティーのルールに服従する人間を再生産しているわけです。しかし、ジョナスはギヴァーのサポートのもとに、話し合いをし、自分の考えももってしまいました。そしてそれを表現までしてしまったのです。

2012年8月3日金曜日

リーディング・ワークショップとの関連 4

『ギヴァー』の中で描かれていることと、読むこと、読むことについて話すこと/話し合うこと、読むことについて書くことなどが、関係ないようでかなり深いレベルでつながっている気がするので、両者の関連を引き続き紹介します。

111 もし子どもたちが読んでいるときに、教師がいつも横についてサポートできるのであれば教えてもよいかもしれません。しかしながら、結局のところ子どもたちは、教師のサポートなしに自分のベストを尽くして読めるようになっていかなければならないのです。

 読むことに限らず、すべてにおいて同じことですね。
 なでしこのオリンピック初戦で先制点をたたき出した川澄奈穂美選手の記事が上のこととも関連します。

 カンファランスとは、子どもたちが自立した読み手になるようにサポートしていくことです。子どもを自立した読み手にするためには、自分でできる範囲(をちょっと超えた部分)のことを教え、少しずつコーチングをして自ら行うように促し、子どもたちが上手に読めるようになるために考えたり、習慣にしたりするようにお手本を見せていく必要があります。

 熟練工はただ見本を見せてくれるだけで、カンファランス(聞き出すことを中心にした会話を通して教えること)やコーチングはほとんどしてくれませんが、読むことを教える時も、書く時を教える時も、体育や音楽や家庭科や情報などの実技を教える時も、そして他の主要教科を教える時も、①いい見本、②カンファランス、③コーチングは、教えることと同じかそれ以上に重要なはずですが、ほとんど存在しないのが現状です。

 『ギヴァー』のコミュニティーでは、12歳であてがわれた職種で、みんながインターンシップをしているような気がします。実は、12歳の前からかなりやっています。