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2013年3月27日水曜日

<教科書検定>「英語で授業」基本に


この記事、全部が私にはマンガ★としか読めませんでした。
(改定のたびに繰り返されることですが。)

もちろん、それに付き合わされる生徒たちはかわいそうです。
そして、そのツケは、社会として払い続けます。
これまで何十年も払っているのと同じように。

『ギヴァー』 のコミュニティでは、この教科書問題はないのでしょうか?
教科書中心の授業をしているような記憶がうっすらとあります。
著者のローリーさんは、おそらく、それしか体験していなかった
でしょうから。

でも、その「それしか体験していない/知らない」ということほど、
恐ろしいものはありません。(少なくとも、教育の場合、「知らぬが仏」
はあり得ません!!)

自分たちのしていることの愚かさ/恐ろしさに、気づけませんから。


★ 上の「マンガ」は、「悲劇」と置き換えられます。
  「犯罪」と置き換えた方が、より正しいかもしれません。

  もちろん、それは高校レベルだけで起こっているのではなく
  すべてのレベルで。

  さらには、すべての教科で、です。

2013年3月25日月曜日

地域での買い物の変化



 『明治物売図聚』で紹介したかったのは、あれほどたくさんの物売が存在し、私たちが住んでいるところに売りに来てくれていた、ということでした。住人にとっては、とても便利な社会だったわけです。
 それがいつの間にか、立場が逆転して、買う側が売る側のところに行くことになってしまいました。
 私が小さかったころは、それでも多様なお店がありました。しかし、いまはドンドン専門店が減り続け(全国の銀座通りがシャッターどおりになっている!!)、その代わりに増えているのが広い駐車場を持ったコンビニとモール(巨大ショッピングセンター)です。

 この変化は、地域コミュニティの崩壊と並行して起こっている出来事でもあります。
 物売が来ていたころは、「つけ」というのも当たり前に行われていました。信頼関係が築かれていたので、その時その時には払わずとも、一括払いが可能だったのです。もちろん、いまはそれがクレジット・カードでやれるじゃないかということになりますが、こちらは顔の見えない関係です。顧客が破産しようが、まったく関係ありません。
 「つけ」が利いていた社会(コミュニティ)だったので、年末にすべてをちゃらにすることも大事だったんだと思いますが、何十年前からそういう感覚は失われているでしょうか?

 そういえば、コミュニティのセンター的機能を果たしていた銭湯もなくなる一方です。たとえば、コンビニにコミュニティ・センター的機能は期待できるでしょうか?

 『ギヴァー』のコミュニティでそんな機能を果たしている場所はあるのでしょうか?

 利便性の追求が、いまのモノの売り買いをもたらしているのでしょうか? それとも単純に経済性の追求? それによって失ったもの(コミュニケーション、安全性、コミュニティ意識等)は考慮されていたのでしょうか?

2013年3月24日日曜日

音の世界



 前回の中世の音つながりで、『明治物売図聚』(中公文庫)というのがあります。
 こんなにも、物売りに歩く人がいたのか、と驚いてしまいます。
 目次から、例を示すと(5ページのうち2と4です。クリックすると拡大で見られます。)

   
 江戸時代から、少なくとも明治の終わりぐらいまでは、いた人たちです。
 戦前ぐらいまではいた職種も多かったのかもしれません。
 戦後まで残っていたものもあるかもしれません。

 自分の存在を知らせるためには、何らかの音を発していたはずです。
 つい数年前までは、私がいま住んでいるところでも、豆腐屋さんのラップの音が聞こえました。しかし、豆腐屋さんの高齢化が進んだのか、いまでは残念ながら聞こえなくなっています。
 似たような音を各物売りさんはもっていたように想像されます。

 「さおや~、さおだけ」的なことを、言いながら回っていたのかもしれません。一昔前までは、スピーカーがなかったので、人の声だけですから、それほど迷惑には感じませんでしたが、最近のはたまにやってきても、大きなスピーカーですから迷惑に聞こえるだけです。(以前の竹製と違って、そんなにニーズがあるものではありませんから。)
 それよりたちが悪いのは、粗大ごみの回収者です。こちらは1週間に数回来ますから(異なる業者なのでしょうが)、迷惑以外の何物でもありません。
迷惑ということでは、いまや自治体がその最大の発生源(=官製騒音公害)になっています。「おかえりチャイム」は、“チャイム”ですからまだいいとしても、問題が大きいのは「子どもの見守り放送」です。(わが市は、平日2時半です。うちの自治体はそんなの流していない、という方は、ぜひお知らせください。)

 『ギヴァー』の世界も、このスピーカーらしきものがあるようです。そういえば、各家の中にもありそうです。あと聞こえてくる音には何があったでしょうか?

2013年3月21日木曜日

『ギヴァー』と関連のある本 91



 今日紹介するのは阿部謹也さんの『ヨーロッパを読む』★です。
 阿部さんは、私が好きな研究者/書き手★★の一人で、『ハーメルンの笛吹き男』以来、出たものはほとんど読んできましたが、この本はどういうわけか抜けていました。
 内容的には、他の本で阿部さんが書いてきたことを講演の形で話したものですから、私にとってはあまり新しい発見はありませんでしたが、ギヴァーとの関連で思い出させてくれたことがいくつかあったので紹介します。

 一つは、時間、空間、死生観が12~3世紀に大きく転換したということです。それには、村や町の共同体の出現と、その中に教会が必ず存在することが大きな要素だといいます。
 それは、2つの宇宙=小宇宙(自分の身の回り)と大宇宙(その他)の捉え方の違いとも言い換えられます。 ← ギヴァーのコミュニティも、内と外をかなり明快に分けていました。そして<よそ>というか<かなた>というか<どこか自分とは関係ないところ><違うところ>Elsewhere)は、『ギヴァー』シリーズの大きなテーマの気がしています。
教会に相当するものが、いまの日本やギヴァーのコミュニティにはないのも共通点かもしれません。

 2つ目は、中世の音の世界も、いまとはまったく違っただろうということです。阿部さんは、現代人には想像もつかないだろう、と言います。機械音が、基本的にはない世界です。
ギヴァーのコミュニティも、私たちの社会とは大分違う感じをもっています。人の迷惑をまったく考えないスピーカーでの放送(自治体の)は同じですが。

 3つ目は、日本における意思決定は人間関係の持ち方によっている、という指摘です。少なくとも、いまのヨーロッパにおいては関係のとり方を押し付けない。(その意味では、歴史を知る/歴史的に捉えることはとても大切!)もちろん、そういう時期もヨーロッパにはあり、いまだに残している部分もあるが・・・日本は、世間で個を位置づける。それ以外の捉え方がない! 個が存在しない日本。世間を離れたら自立できない日本人。親子関係も世間/自立できない関係。世間と社会の違い。後者は、理性、合理性、日々努力しないとわからないもの。前者は、序列、あいまい、理性の排除、義理人情など。自己を意識させない世間、と厳しいことばが続きます。さらに、個人、人格、人権は、いずれも存在しない日本、とも。
 そして、世間をどう扱うかは、日本の大きな問題 ~ 世間を広げる可能性はあるのかないのか。世間を捨てることはできるのか、と。(以上のことは、主に第7章のテーマですが、本全体のテーマであり、少なくとも阿部さんの最後の10年ぐらいのテーマでした。)
この点について、ギヴァーのコミュニティではどうなのかな、と大きな?マークです。

4つ目は(3つ目に比べると軽い?テーマですが)、明治以前に「体育」という概念がなかった日本。それに対して、オリンピックはギリシャではじまり、中世ヨーロッパではすでに体育が十分に行われていた、というのです。でも、今度の柔道界のいざこざや大阪市の高校バスケ部の「体罰」事件などを見せられてしまうと、単なる「体育」や「スポーツ」以外の何ものかとつながっている、と思わされてしまいます。
それに対して、ギヴァーのコミュニティの「体育」「スポーツ」は?


★ 今回の本との出会いの出発点は、2月17日に書いた『スリー・カップス・オブ・ティー』です。パキスタンとアフガニスタンといえば、ペシャワールの会の中村哲さんとの共通点を思い出し、彼の本を読んでみようとチェックしてみたら、ほとんどが石風社という出版社から出ていたのです。それで、他に私が読みたそうなのをリストアップした中に、『医者は現場でどう考えるか』と、阿部さんの『ヨーロッパを読む』が含まれていました。(ちなみに、この選書法は『ブッククラブ』の本の208ページで紹介した「芋づる式」という極めて効果的な方法です。)

★★ 彼の研究テーマの「人と人の絆」というのが、なんともいいです。そういう設定ができる人って、そんなにいないと思います。

2013年3月19日火曜日

司馬さんからの宿題


 前回、司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」について触れました。
 私自身、本は出たとき読みましたし、テレビドラマも見ましたし、ドラマ用につくられた歌も好きで頻繁に聞いています。
 しかし、あれらからは、日本の現代史でピークだったのが、日露戦争が終わったときの1905年で(まさに、開国以来、坂を登りつめるように)、その後はひたすら転がり落ち続けている(少なくとも、1945年までは)というのが司馬さんの考えであることは伝わってきません。
 そのことは、ご本人も別のところでくりかえし書いていますし、言ってもいました。
 自分にとっての戦争体験のひどさが、すべてを書かせている、とまで。

 そして、私の記憶では韃靼疾風録が最後の小説ですから、亡くなる前の約10年(1987~1997年)は、ひたすら当時の日本のありようを嘆き続けていたように思います。しかし、その司馬さんのメッセージがどのくらい日本人に届いていたかは、はなはだ疑問です。

 司馬さんが嘆いた10年間より、いまの日本の何は良くなっているでしょうか?
 大きな宿題は残されたままな気がします。

2013年3月17日日曜日

『ギヴァー』と関連のある本 90



 『ギヴァー』の中で印象に残るシーンのひとつが、戦場で死ぬ兵隊のシーンです。
 アメリカの歴史を紹介したときにも書きましたが、著者のロイス・ローリーは戦場に出ることのない司令官のような立場を書くこともできたとは思いますが、一兵士について書くことを選択していました。(10代前半を主な対象にして書いていましたから、すべてに関して身近に感じられる題材を選んで書いていたように思われます。)

 今日紹介する本は、『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』(アレン・ネルソン著)です。
 日本人が、自分が戦争で人を殺した体験を語った本はあるでしょうか?
 たとえば大岡昇平の本も、そういう視点から書かれた本ではないですよね。
 原爆体験を含めて、戦争の被害者体験は山のようにありますが★、加害者体験(それも、人を殺すことがどういうことなのか)について書かれた本は。
 「国を守る」の名のもとにしていくことは、軍隊にとった人たちを殺人マシーンにしていくことだということが、この本を読んでよくわかります。★★
 そして、アメリカにとって沖縄というところがどういうところなのかも。(大統領と首相のあいだを含めた政府高官の話からは、決して見えてこないことが。視点が違うと、見えるものも違う!!)


★ もちろん、その大切さを否定するつもりはありません。そして、「殺さない」と決めて、それを実行した体験記も大切です。

★★ 日本にとっての15年戦争も、こういうことだったと思うのですが、なかなか一兵士の視点からは書かれることがありません。あったら、ぜひ教えてください。
あの司馬さんですら書けませんから。(幸いにも、人を殺す体験をしていなかったから?)「坂の上の雲」でも戦争シーンはたくさん出てきますが、基本的にはゲーム感覚に近い描写といってもいいぐらいかもしれません。(よく言えば、俯瞰的な書き方です。)それに対して、ネルソンさんはゲームと実際はまったく異なることを語ってくれています。それは、人を殺したという体験のあるかないかの違いのような気がします。
人を殺すということは、普通の心的状態にいられないことを意味し、ベトナム帰還兵をはじめ、イラクやアフガニスタンからの帰還兵たちの少なからぬ人たちは「心的外傷後ストレス精神障害」をかかえ苦しみました。これは、ベトナム戦争後にわかったことで、日本がしでかした15年戦争中およびその後には、まだわかっていませんでした。
  ちなみに、あのベトナム戦争では58,000人のアメリカ兵が死に、200万人以上のベトナム人が死んでいます。
  いったい何のために?
  ロイス・ローリーさんが描いた『ギヴァー』のシーンにも、その理由は書かれていませんでした。

2013年3月13日水曜日

ギヴァー・シリーズ第2弾、出版



  いよいよ第2弾の出版です。以下は、そのまま新評論の新刊案内より。

子どもの創造性とは何か。「教育」とはだれのためにあるのか。
数多の問いをはらむ話題の近未来小説シリーズ、待望の第二弾!

ギャザリング・ブルー青を蒐【あつ】める者
              ロイス・ローリー/島津やよい
                            ★〈ギヴァー四部作〉待望の第二弾!

ご好評をいただいている〈ギヴァー・シリーズ〉の第二作です。物語の舞台は前作同様、「近未来」らしき世界。『ギヴァー』の登場人物は出てきません(でも、どこかに「おや?」という場面がひそんでいるかもしれませんので、さがしてみてください)。主人公は脚の不自由な少女キラ。手がとても器用で刺しゅうが得意です。彼女の住む「村」では、「欠陥」のある者は排除されてしまいます。キラも、唯一の庇護者である母を病気で亡くすや、生存の危機に直面します。しかし「村」の上層部はキラの刺しゅうの才能に注目し、彼女を生かし、重要な任務をあたえます。助かったことに安堵したのもつかのま、キラはしだいに、上層部が自分を含めた「才能ある子どもたち」を搾取していることに気づいていきます。
 訳文の推敲をほぼ終えたとき、大阪市の高校バスケ部の「体罰」事件のニュースが流れました。わたしは事件の内容だけでなく、べつの意味でもショックをうけました。訳したばかりの作品が訴えかけている問題が、いままさに現実化していると思われたからです。学校の経営やコーチの名誉心、市長の思惑などという「おとなの事情」によって、子どもが窒息している…創造と表現の自由をうばわれ、おとなの道具にされているキラたちの姿がそこに重なってみえました。
タイトルにもあるとおり、物語は「青という色」をめぐってスリリングに展開していきます。しかし前作と同じく、やはり根幹には「未来をつくる存在としての子ども」という主題が流れています。創造性を自分の手にとりもどそうとする主人公の姿は、「教育」とはだれのためのものなのかという根元的な問いを喚起せずにはいません。そしていつもながら、社会や共同体、才能、人間の「価値」や「有用性」など、ふだん何気なくつかっている概念を深く考えさせる巧みなしかけに満ちています。
昨2012年秋、第四作となる大作『SON(息子)』が発表され、さらに厚みを増した〈ギヴァー・シリーズ〉の世界。まずは第二作をおたのしみください。(しまづ・やよい)

2013年3月12日火曜日

「日本国憲法」を読み直す



井上さん続きで、井上ひさしさんと樋口陽一さんの対談集の『「日本国憲法」を読み直す』。(数字は、ページ数です。)
   
 226 「国家からの自由」と「国家による自由」の2つがある。 ~ 後者は、国民が国家を動かし、その国家を通しての自由を確保する(国民の意思を反映した国家によって確保される自由)、という意味
227 ジョン・スチュアート・ミルは150年ほど前のイギリス社会をモデルにして、ポリティカル・オプレッションとソーシャル・タイラニイという2つの言葉を使い、「国家からの自由」と「国家を通しての自由」の必要性をデザインしています。 ~ 国家および民主主義をつくり出す経験の長さがあまりにも違いすぎる!!!  単に、長さだけでなく、その質も。片や、単に絵に描いた餅?
  それと同時に、個人と国家のあいだに立ちはだかって個人を意識的、無意識的に圧する中間集団からの自由を確保しなくてはいけない。
    その典型例としての、“自粛”
228 独禁法
    「日本は本当に自由経済か」
229 大事なことは、自由経済の国なのだから国家は何もできないというのはウソだということです。自由経済であるからこそ独禁法をもっと厳格に運用して独占を壊す、あるいは制限して自由な競争がおこなわれるようにしなくてはいけない。
    なるほど、「国家を通しての自由」は、経済的な問題で考えるとわかりやすいですね。福祉なども一種の「国家を通しての自由」かもしれませんね。
    問題は、「表現の自由市場」です。
232 日本国憲法のタテマエとしては思想、表現の自由は優越的だということは広く認められている。しかし、実態としてはそれが機能していない。
234 家永教科書訴訟 ~ 教科書検定には大変な憲法上の問題があることを気づかせた。
235 パブリック = 自分という個人がより個人であるために、維持しておかなくてはいけないフォーラムのようなものを努力して大事にする。私たち日本人はこれを本当につくれるのだろうか? ← これは、日本にとっても、『ギヴァー』のコミュニティにとっても最大の課題ではないでしょうか?
236 国家というのはどこか信用できないんだぞという、この緊張の上に世の中が乗っかっているかどうかということの見極めです。(国家を自分にとっての他者として信用しないという見地と、自分たちの責任ある投票行動でその国家をつくっているという見地の)どちらがなくても(民主主義国家の国民にとっては)大変なことになるのです。


 日本のことについて書かれているのですが、まるで『ギヴァー』のコミュニティについて書かれているようにも読めました。 国家をコミュニティに置き換えるだけでいいのですから。

2013年3月11日月曜日

『吉里吉里人』の絵本版を発見



 井上ひさしさんの『吉里吉里人』は、これまでに何回か紹介しています。私にとっては、「まちづくりのバイブル」まで書いたこともあるぐらいです。

 東北のちいさな町(村?)が、日本国から独立するというお話です。分量的には、丸々2日間読み続ければ終わるぐらいに分厚い本。(そんな厚い本は読みたくない、という方は、ぜひ今回紹介する絵本をどうぞ。)別に、日本から攻められたわけではありませんが、「もうがまんがならねえんだっちゃ」ということで独立してしまうのです。
 読んだ当時の私の仕事がまちづくり/コミュニティづくり/都市計画ということもあって、自分にひきつけて(=町や村を生き生きさせるためのアイディア満載の本として)読んだわけです。従って、3500人程度のコミュニティである『ギヴァー』と関連する本として位置づけていたわけです。

 今回紹介するのは、その絵本版です。しかしタイトルは、『「けんぽう」のおはなし』。
 そうなんです、日本国憲法について、小学校4年生~6年生を相手に井上さんがとてもわかりやすく話した(時には、質問しながらやり取りした)内容です。
 そしてその内容は、『吉里吉里人』の内容そのものと言ってまちがいないのです。井上さんには申し訳ないのですが、井上さんがこれ(=いまの日本国憲法の大切さ)が言いたくて『吉里吉里人』を書いたのかと今になって気づきました。読んだのは、1981年ですから、32年遅れで。
 他の彼の小説や戯曲の中にも、そういうのがあるかもしれません。『ひょっこりひょうたん島』でさえ?

2013年3月6日水曜日

『教育再定義への試み』 5


鶴見さんの本の最終回です。
(いつものことですが、書き抜き=引用しているところは、あくまでも私が「引っかかった」ところです。他の人が読んだらとうぜん引っかかるところは違うものになると思います。斜字は、私のコメントです。)

114 学校などなかった時代から人間の教育はつづいている。そこにかえって教育を考えるほうがいい。 ← 鶴見さんは自分の日本での学校体験があまりにもひどいことと、現状への厳しい目を持っているので、痛烈に批判的なのですが、学校外の教育との関係についてはしっかり見直しはしたほうがいいと私も思います。いまのキャリア教育/総合学習的なレベルでお茶を濁していては、まずいです。教員研修の一環として行われる会社(他組織)体験も然りです。

  教育されない力。それは教育をはじきかえす野性の力である。教育者のおもわくどおりに、生徒の力をためなおすことはむずかしいし、そういう努力をすることは、のぞましい教育ではない。教育と反教育の相互交渉の場を、のこすほうがいい。のこすなと言っても、のこるのだから、はじめから予測に入れておいた計画をたてるようにしたい。 ← まったく! 教科書が絶対なもの。教師のいうことが絶対なもの等々を見直すことも大切です。世の中すべてバランスですから。

115 13~14歳の中学生たちとの話し合いから出てきたこと:

  教師が自分を含めての問題を出してこない。親についてもそうで、親が子どもを含めて自分として、人生の問題を問うことがないということを、とてもはっきりと、なげかけてきた。

  教師や親が、尊敬されなくてはならないという考えは、現代では考えなおす必要がある。子どもたちの前に、自分自身をもっと前に出す方法を考えたらどうだろう。 ~ いい意味でも、悪い意味でも(?)モデルであることを自覚して。鶴見さんは、それを見事にしています。

  家庭は失敗を語り継ぐ場 ← これも学校と同じで、失敗はできるだけ隠しちゃって、できるだけ見えないようにしていますね。

116 親問題をすてない。
    親問題には、正しいひとつの答えを出せないものが多い。
119 いじめの問題も親問題である。 ~ 登校拒否も?
118 教師は、その正しい答えをどこで知ったか。
    教師は、その問題をどのようにして手に入れたか。
    教師は、その問題を自分でつくったのか。
 ← 114ページからこの辺までは、前回紹介した中学生たちとのサークルで(『大切にしたいものは何?』と『大人になるって何?』で話し合われている内容です。
146 教育は世界のどこでも国家の統制の下におかれるのが当然なのか?

165 私の自己教育の計画 ← 鶴見さん自身の、という意味。「計画」というよりは、「方針」というニュアンスに見えますが・・・
1. くらしそのものは、くらしの意識より大きい。そしてもっと重大なものを含んでいる。私自身のくらしは、私の考えをこえる重さをもつ。
2. 記録にのこるわずかの数の個人を越える偉大な個人が人間の総体にいる。人間の総体は、どんな偉大な個人より偉大である。
3. 専門の思想家の仕事をこえる仕事が、専門の思想家外の人の仕事にはある。教育専門家以外の人たちによって大切な教育がこれまでになされてきたし、今もなされている。そして、これからもなされていく。

2013年3月5日火曜日

『教育再定義への試み』 4


鶴見さんの本の4回目です。

40 教育は、それぞれ文化の中で生き方をつたえるこころみである。 ← 『ギヴァー』のコミュニティは、学校での教育は12歳(11歳?)までですから、それほど学校でのまなびは重視していないのかもしれません。基本的には、On-the-job重視です。

41 生き方の中にあるものとして死に方も含まれる。 ← 死に方に関して、『ギヴァー』のコミュニティは、それなりにこのことを考えて仕組みをつくっている部分がある気はします。生まれ方の対を成す形の死に方というのでしょうか?

   私の言いたいことは、今の日本は学校にとらわれすぎているということ。学校がなくても教育はおこなわれてきたし、これからもおこなわれるだろう。学校の番人である教師自身がそのことを心の底におけば、学校はいくらかは変わる。 ← もちろん、そうさせているのは周り(文部科学省、教育委員会、親、マスコミ)でもあるわけですが。この辺の関係は、『ギヴァー』のコミュニティではどうなっているんでしょうね?

66 アメリカで受けた15~19歳の(主に、ハーヴァード大学での)教育  ~  教育と反教育の両面があった

87 サークルでのまなびの大きさ
   個人との付き合いによるまなびの大きさ(梅棹忠男、今井美沙子)
  ← 鶴見さんにとってはハーヴァード大学での学び以外は、ほとんどこの2つ+本(?)が学びの源泉になっているようでした。それもきわめて長い期間。76歳になっても中学生13人とサークルを作って「みんなで考えよう」と話し合い、シリーズ3冊の本を出しています(『大切にしたいものは何?』『きまりって何?』『大人になるって何?』)。中学生の本音が出ていて、とてもおもしろいです。もともとは、KBS京都が企画・製作したテレビ番組だったそうです。自分から企画したわけではなくても、よく引き受けたもんです。やり取りを読んでいても、「好き」としか言いようがありません!

Frank Smithという人も、Literacy Clubを国語の授業ですることを1987年に出した本で提唱していました。それが読み・書き(+聞く・話す)をよく学べるベストの方法だと。同じことは、他の教科にも言えてしまいます。算数・数学クラブ、理科クラブ、社会クラブなどなどです。教師ががんばって教え続けるかぎり(教科書をカバーし続けるかぎり)は、いままでの悪循環を繰り返すだけ=鶴見さんの言葉だと「受験犬を作り出す」だけです。

このサークルの一つが、先日出したブッククラブの本でした。ブッククラブをし続けることで、どれだけの力や資質が身につくかに驚かれるでしょうから、ぜひご覧になってください。

 『ギヴァー』のコミュニティには、このサークルやクラブ的なものは残念ながらなさそうです。

95 ヘレン・ケラーとの会話
 「私がハーヴァードの学生だとこたえると、自分はそのとなりのラドクリフ女子大学に行った、そこでたくさんのことを“まなんだ”が、それからあとたくさん“まなびほぐさ”なければならなかった、と言った」 ← ヘレン・ケラーさん、ちゃんとわかっていたんですね。大学の価値が。
 ちなみに「まなびほぐし」は英語ではunlearnです。学ぶことと同じか、それ以上に大切といわれ始めています。もちろん、間違って学んでしまったことに関してですが。それが結構というか、かなり多いのが学校であり、大学であるということです。

2013年3月4日月曜日

『教育再定義への試み』 3

 鶴見さんの本の3回目です。

28 戦争にゆくゆかぬというような自分の人生に深くかかわる判断は個々人がきめることだ。 ← 他人が決めることでも、ましてや国家が決めることでもない!

  家庭も学校も会社も、個人の私的信念を軽くみるようであってはいけない。
  しかし、私的信念を重くみるということは、その私的信念のまちがいの可能性をのこすということである。教師が自分でまちがいのない答えをもっているとする教育方針からは、まちがいの危険をあらかじめ、親心をもって、また権威をもって排除される。そのような教育に私たちはこれまでながくならされていて、それを不思議と思わなくなっている。そのために、入学試験にあわせた学校教育制度がとおっている。 ← 私たちは、いったい何を大切にしたいのか、を問われているわけですが、選び間違いをずっとし続けているようです。

30 まるごと(whole)と全体(total)

 明治のはじめには、手ばやくつよい国家をつくるために、集団として型にはめ込む教育が、小学校だけでなく、中~大に必要となった。規格化、均質化。 ← 『ギヴァー』も画一化を徹底した社会です。

  まるごとというのは、そのひとの手も足も、いやその指のひとつひとつ、においをかぎとる力とか、天気をよみとる力とか、皮膚であつさ、さむさ、しめりぐあいをとらえる力とか、からだの各部分と五感に、そしてそのひと特有の記憶のつみかさなりがともにはたらいて、状況ととりくむことを指す。その人のこれまでにうけた傷の記憶が、目前のものごとのうけとりかたを深めたり、ゆがめたり、さけたりすることを含む。 ← ウ~ン、と唸ってしまいます。一人ひとりのかけがいのない体験、記憶が大切にされる教室、学校、会社、家庭、地域、社会は可能なんでしょうか? 最大限に努力をしないと、まずいわけで・・・私たちはその努力をどれだけしているのかが問われてしまいます。

  まるごとの教育は可能か?  偶発性教育。 親にむずかしく、教師には一層むずかしい。 ← WW&RWのアプローチならかなりのレベルで可能!

37 宮本常一の『忘れられた日本人』の一こま ~ 村という集団が全体ではなく、まるごととして動いた例の紹介。個々人が自分の役割・立場で有機的に動く。事前の相談などはしない。それぞれが経験と関係を築けているから。 ← それとコミュニティの規模と関係する。

38 教育は、連続する過程であり、相互にのりいれをする作業である。教える~教えられる、そだつ~そだてられるは、同時におこり、そして一回でおわるのではなく、その相互作用はつづいていく。 ~ しかし、一回の授業、一つの単元でよしという感覚で進み続けている日本の学校や大学の授業。

2013年3月3日日曜日

『教育再定義への試み』 2


鶴見さんの続きです。(とてもいい内容なので、しばらく続きます)

5 学校は、戦中から戦後へとファシズムを温存するトンネルの役割を果たした。途中数か月、トンネルがきれて青空のもとに教室がおかれたことはあったが。 ← なんと、わずか「数ヵ月」だけだそうです。少なくとも、鶴見さんはそう見ています!!

14 教師の器量が、教育の質をつくる。制度がかわってこそ完全な教育ができるという期待は、制度をかえることに成功したあとでその制度をむしばむ。そればかりか、制度をかえる運動そのものをも改革運動の最中からむしばむ力となる。 ← 要するに、上からの改革では悪くなるだけ!

15 試験につよい子どもをつくる幼稚園~大学。教師に飼いならされた受験犬になる。
 教師がなぜ正しい答えをもっているかを問うことはしない。
 自分で問題をつくるという作業は、受験本位の学校教育では、出番がない。
 自分で問題意識をもって考えろ、と大学でいっても、すでに、小~高でつくられた勉強のイガタは、大学でもこわされることはない。(大学教授たちも、ゆたかな社会の中のそれなりに激烈な受験戦争を勝ち抜いた人たちであり、自らの問題と模範解答を海外の最も新しく正しい学問の書物からうつしてきている。) ← なんと「受験犬」です!! 試験・受験は、いいことないどころか、悪循環を強化しているだけのようです。 ちなみに、『ギヴァー』のコミュニティーには受験犬はいません。ある意味で評価という観点では、理想的な評価をしている社会かもしれません。評価される側をアン・ハッピーにしない評価というか、ハッピーにする評価というか。もちろん、12歳で個々人が選べるようにしたらどうなるか、見たい気はしますが・・・・おそらく、長老たちの見立てよりもはるかにまずい選択になるように思います。

18 教育は、家庭がベース。
   病院の外で死ぬことが尊厳死。

19 東京でなくとも、大都会の中では、学校にいても、会社にいても、家庭にいても、社会が見えにくくなっている。
   小さい町、村、小さい島では、都会よりも、全社会がちいさいときから見わたすことができる。 ← スケールを下げる努力、見える関係づくりが求められています。

 『ギヴァー』のコミュニティーは、3500人です。

2013年3月2日土曜日

『教育再定義への試み』 1


 安倍政権の柱の一つが教育改革です。その中のひとつが、「いじめ対策」。
 いじめや子どもたちが犯す犯罪事件も含めて、教育について考えるときに大事な視点を提供してくれているのが、この本、鶴見俊輔著の『教育再定義への試み』です。
 初版が出たのは1999年ですが、古さは感じません。
 しばらく前にとっておいたメモから紹介していきます。(数字は、ページ数です)

2 1997年に神戸で14歳の中学生が9歳の小学生を殺し、その頭を胴からきりはなして自分の学校の門の前におくという出来事があった。
  子どもや生徒の殺傷事件が起こるたびの、親、教師、校長、教育委員会、大人社会全体の対応の仕方  ~ 「生命を大切にするように」という一般論の訓辞をしたということにも、共感できない。校長が、大臣や次官や銀行や証券会社の重役や(教育委員会の役人)とおなじく型どおりの言葉づかいで自分を守っていることにも共感できなかった。

この点について解説者は、

197 1997年の酒鬼薔薇聖斗事件を考えることは、そのまま教育を考えることだ、というふうに問題を立てている。
  教育が子どもを善導すると信じている凡庸な(と私には思える)人たちは、殺人を犯した少年に「教育の欠如」を見る。教育の欠如を見るゆえに、このような事件が起きるたびに、より一層の教育の必要性を声高に訴える。 ← 安倍さんに代表される政治家や教育委員会、管理職。企業や役所の不祥事しかり。「指導・教育を徹底します」 その切迫した調子が、さらなる国家による教育への介入を促すことになる。 ←「こころの手帳」、学力テスト、そして今度は道徳の教科化です。道徳を評価する/される者の立場にたって考えたことある人たちがこれを提案した人たちの中にいるのでしょうか? こうしてまた現状に息苦しさが加圧されていく。 ← 「学校ごっこ」の一つがまた増えるだけです。

198 鶴見は、まったく逆に、教育がもたらした痛みが一人の少年を酒鬼薔薇聖斗に仕立てたと考え、子どもが殺人を犯すに至るまでの教育の関与こそを問うのである。教育とは、男の子の未来をこのような殺人犯に仕立てていくような親、教師、子どもたちのかかわりがもたらした痛みのことである、と鶴見は述べる。

 『ギヴァー』のコミュニティでも、殺傷事件やいじめは起こると思いますか?