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2014年5月31日土曜日

『老いに負けない生き方』



「老い」を追いかけ続けています。その過程で見つけたものの一つが、エレン・ランガー著の『老いに負けない生き方』です。
作者は、「マインドフル」であることの大切さを、長年説いている人です。(私が出会ったのは、彼これ20年ぐらい前で、すでに『校長先生という仕事』の中で紹介しています(218ページ)。それは「いろいろな視点から物事を捉えることができ、新しい情報等に心が開かれており、細かい点をも配慮することができ、従来の枠の中に納まっているよりもはるかに大きな、人々の可能性を信じることができる」ことを指しています。マインドフルの反対は「マインドレス」で、「物事への注意を欠いたり、柔軟性や応用力のない心の状態」をいいます。(219ページには、表で対比させています。)

 ちょっと長くなりますが、とったメモを残しておきます。斜字は、私の付けたし+コメントです。

93 私たちは、社会的な通年や常識、決まり事に流されている。
   それらは、それを作り出した人のニーズと、その人が考える「典型的な人間」に合わせて作られている。たとえば、劇場の椅子の幅、キッチンのテーブルの高さ、角砂糖の大きさ・・・身の回りの様々な物(や習慣)は、私たちの都合ではなく、実は社会の都合に合わせて作られているのである。
   人はたいてい、外側の世界が自分に合わないと、悪いのは自分だと考える。外側の世界のほうが悪いとは思わないし、自分のニーズに合わせて環境を変えようともしない。
94 医学界の常識もそれと同じだ。私たち一人ひとりのためではなく、医学の都合に合わせて作られている。
   それでも私たちは、決まり事のマイナス面に気づいてもいなければ、そもそもなぜ決まり事が存在するのか疑問に思うこともない。

96 制服廃止が、(老人)ホームの雰囲気を一変した。上下関係ではなく、お互いを尊重するようになったからだろう。

97 心理学の世界では、行動や感情のきっかけになるようなものを「プライム」と呼んでいる。ある意味で、環境が私たちをコントロールしていると言えるだろう。 ~ 一種の、「刷り込み」。マインドフルになることで、それから解放される!
100 私たちの身の周りには、無意識のうちに影響を受けているプライムがたくさんある。たとえば、病院(学校も!)を例に考えてみよう。 白衣、殺風景なオフィス。病気をイメージさせるプライムの宝庫!! 老人ホームは「老い」をイメージさせるプライムの宝庫。 学校は??
  挑戦するからこそおもしろい!! しかし、病院も、老人ホームも、学校も(?)それらを排除している
  病院や老人ホームのドアは開けておく ~ 「一人では何もできない」のメッセージ
104 薬の選択 ⇒ 治療のプロセスに積極的に参加できるだけでなく、自分の体に注意を払うようになる

106 よりマインドフルな状態になると、健康状態が向上し、症状をコントロールする力も大きくなるということだ。

107 一言のあいさつで関係が変わる! ちょっとした気遣いでいい関係が維持できる。なら使わないのは損。

113 言葉が理解という幻想を生みだしているのだ。
    言葉は近道であり、個人の経験は一冊の本ということになる。

115 仮定的な表現を使うことで、話し手と聞き手の両方が、よりマインドフルな状態になることができる。「かもしれない」 → 「もしかしたら違うのかな?」「他にはどんな可能性があるだろう?」と考えるきっかけになるからだ。
    あなたが経験していることを知っているのは、あなた自身だけだ。それなのに、医者の言葉だからという理由だけで、何も考えずに信じ込んでしまう人があまりにも多い。医者がどんなに気をつけていても、患者の方が「専門家」である医者に頼りきりになっていたら、その言葉は必要以上の力を持ってしまうだろう。 ~ 医者と患者を、教師と生徒に置き換えると、そのまま当てはまってしまう!!! 選挙によって選ばれた当選者=政治家と有権者の関係も?

116 言葉には、勝手に解釈されてしまう危険性があることを認識する必要がある。

117 人は大半の情報を無意識のうちに取り入れていて、中身について深く考えることもない。 ~ これには、もちろんいい面と悪い面がある。一つひとつの情報にすべて真剣に向き合っていたら、生きていけない。聞き流すことで、日常生活が送れる。しかし、その中には深く考えることを求められているものもあるということ。 その判断を導くものがマインドフルのスタンス??

120 前向きなプライムを与えられると(刷り込まれると)、プラスの行動やイメージをつくり出す効果がある。 マインドフルとの関係は?? 自己暗示するということ?

136 治ると信じることで、本当に治る

140 社会の常識や通念は、実際に私たちの健康に影響を与えている。 教育の健康度はもっと深刻な問題!!! どうせ影響を受けるのなら、無意識のうちに悪影響を受けてしまうのではなく、自分にとって利益になる影響を自分で選んだほうがいいだろう。

143 これまで見てきたように、心があきらめてしまうと、体にも影響が出てくることを示す例は、枚挙にいとまがない。数字(や常識や通念)を完全には信じていない人でも、あきらめることは生きる意志を失うことにつながる、ということはわかるだろう。
  私の母は、ガンで亡くなったのだろうか。それとも、ガンを語るときの言葉のせいで、生きる希望を失ってしまったのだろうか。

153 言葉の選び方に敏感になり、状況に応じた適切な表現ができるようになれば、自分の健康をもっとコントロールできるようになるはずだ。そうすれば、医学的な事実は絶対的に正しい神の声ではなく、むしろ一人の生きた人間が判断したことだと理解できるようになるだろう。 ~ 教育にもいえること。

155 医者を訴えるのは、決して簡単にできる判断ではない。医者とのコミュニケーションに対する不満が大きなきっかけになっている。

あなたの専門家はあなた自身だ
157 医者や看護師が声を上げないのも、ある意味で理解できる。病院にかぎらずたいていの組織に共通することだが、ほとんどの病院は「波風を立てない人」をスタッフに求める。つまり、反対意見を言わずにすぐに順応し、他人の失敗を黙って尻拭いしてくれるような人だ。そういう人ばかりが職場にいると、物事がスムーズに進んでいく。 ~ 学校しかり

159 権威的にならないように努力しているリーダー、つまりリーダーだからといって何でも知っているわけではなく、誰の意見でも歓迎すると公言しているリーダーは、もっと効果的なコミュニケーションを行い、もっとも多くのことを学び、そしてもっともスムーズに新しい技術に切り替えることができる。

162 あなた自身が自分の体の専門家になれば、たった一人の相談相手に頼るのではなく、いろいろな相談相手から意見を聞きたいと思うようになるかもしれない。相談相手のアドバイスが、すべて同じ場合もあれば、人によって違う場合もあるだろう。
  あなたが自分の体に対して責任を持ち、あなたしか知らない情報を積極的に提供するようになれば、医者の側の意識改革にもつながるだろう。もうあなたのことを、顔のない「患者」として扱うようなことはしなくなる。一人の個人として向き合い、あなただけが感じる独自の症状について考えるようになる。
  医者の判断について質問をするのは、悪いことでもなんでもない。→ よきパートナーが理想の関係   この辺のことは、すべて教育にも当てはまる!!

193 私が考えるマインドフルとは、意識的に物事の違いを発見しようとする、簡単なプロセスだ。
    もう知っていると思っているものの中にも、注意していれば、何か新しい発見があるだろう。何に気づくかは、大きな問題ではない。どんなに小さなことでも、些細なことでもかまわない。ただ気づくことそれ自体が大切なのだ。

195 思い込みを疑うことの大切さ。
196 マインドフルとは、とても自覚的な行為だ。そして自覚的であるからこそ、大きな可能性が広がっている。

200 私たちの態度や考え方や思い込みは、食事や医者と同じくらい、健康にとって大きな意味を持つ。もしかしたら、心のほうが大切かもしれないくらいだ。

   自分の面倒は自分で見るようにしていれば、心も体も健康でいられる。

2014年5月10日土曜日

無境界の4回目




  ウ~ン、難しいです!!

第6章 諸境界の成長
128 スペクトルのあらゆるレベルは、統一意識、無境界の自覚、真の自己をつぎつぎと境界づけ、制限、収縮していくものと見ることができる。

134 自らの「自己」を環境から切り離してしまう瞬間、その瞬間にのみ、この死の恐怖 が意識のなかに生じてくるからである。古代の真人は死を恐怖しなかった。彼らが愚かで何も知らなかったからではなく、「心身を超越し」無限と永遠に一体化 していたからである。臨済ならば、真人とは自らの「真の自己」、統一意識であるというであろう。

135 死の問題、無の恐怖が、自らを単なる部分と想像する自己の核心を占めるようになる。

142 自我は、自分自身に関する一つの観念(静的な不死性)を中心にアイデンティティ を確立した知的抽象である。人は身体とともに生きようとはしない。身体は腐敗するからである。そして、自らの写像、死を思わせるものをすべて取り払った写 像である自我としてのみ生きるのである。
  自我のレベルはこのようにして生まれる。心と身体のあいだの自然な線が、幻想の境界、要塞化した城壁となる。実は不可分なものを分け隔てる武装した壁となるのだ。
143 結果的に、一方には強迫観念的思考、他方には乖離された身体が取り残される。

第7章 仮面のレベル/発見のはじまり
147 下降と発見の胎動は、人生に満足していないことが意識された瞬間にはじまる。

148 統一意識の外で生きる人生が、究極的には苦痛と苦悩と悲しみに満ちたものであることに気づき始めていることを示しているからである。境界の人生は戦いの人生である。恐れ、不安、苦痛、そして視の人生なのだ。

149 つまり、苦しみとは、偽りの境界を認識する最初の動きなのだ。そのため、正しく理解さえすれば、苦しみは解放的なものとなる。苦しみはあらゆる境界を越えたところを指し示しているからである。苦しみを正しく理解する必要がある。
150 苦しみが何を意味するのか、なぜそれが起こるのかを知らないかぎり、苦しみに耐え、実りある結果をもたらすことはできない。われわれが、その意味を知らないのは、心の底から完全に信頼できる魂の医師がいないからである。

151 人間の意識が多層的レベルからなっていることを認識すれば、つまり、われわれの存在が数多くの層からなっていることを理解すれば、さまざまな種類のセラピーの違いが、魂のさまざまな層に向けられたものであることがわかってくる。

165 影との戦い

173 さまざまな影の症状の一般的意味



2014年5月6日火曜日

無境界の3回目


回も長いです。

第4章 無境界の自覚
82 統一意識とは真の領域には境界がないという単純な自覚である。
   統一意識とは、無境界の自覚なのだ。
   いうのはやさしいが、無境界の自覚とか統一意識をしかるべく話題にのせることはきわめて難しい。これは、ことばが境界の言語だからである。これまで見てきたように、ことば、シンボル、思考は、それ自体境界以外の何ものでもない。考えると同時に、ことばや名前を使うと同時に、すでに境界がつくりあげられている。

83 重要なのは、主体と客体、自己と非自己、見る者と見られる者のあいだに境界がない、ということである。

90  体験=自己


第5章 無境界の瞬間
108 統一意識とは時をもつ時間的なものではなく、永遠かつ時のないものである。それははじまりも誕生もしらず、また終わりも死も知らない。つまり永遠の性質を完全に把握しないかぎり、「リアリティ」の意味を捉えることはできないのである。
109 永遠とは果てることのない時間の自覚ではなく、それ自体まったく時間をもたない自覚だからである。永遠の瞬間とは、過去も未来も以前も以後も、昨日も明日も誕生も死も知らない、時のない瞬間である。統一意識のなかで生きるとは、時のない瞬間のなかで、また時のない瞬間として生きることである。
110 現在の瞬間は時のない瞬間であり・・・永遠に浸ることであり、鏡をとおって不生不死の世界へ入ることである。
112 永遠とは、この現在の時のない瞬間の本性である。
   「過去と未来の対を超える」通路となる大いなる解放は、いま以外ない。

113 にもかかわらず、このいまだけに完全に生きている人の数はほんとうに少ない。われわれは昨日に住み、果てしなく明日を夢見る。そして、時間という拷問の鎖と実在しない物事の幻によって自らを縛る。記憶と期待という空想の霧のなかにエネルギーを散逸させ、生きた現在の根本的リアリティを奪い、「見せかけの現在」にしてしまう。それは、一、二秒しかもちこたえることのできない痩せ細った現在であり、永遠の現在の青ざめた影にすぎない。
   われわれの抱えている問題がすべて時間の問題であり、また時間のなかの問題であると神秘主義者は主張している。・・・・われわれの抱えている問題はすべて時間に関連したものである。悩みとはつねに過去と未来に関したもので、過去の行いを嘆き、その未来の結果を恐れる。罪の意識は過去と不可分につながっており、落ちこみや悲しみや後悔による苦悩をもたらす。それと同様に、あらゆる懸念は未来に対する思いとつながったものであり、恐れと悲惨と不安を運ぶ雲を呼び寄せる。
114 現在そのものには根本的な問題はない。そこには時がないからだ。

116 過去と未来はない。過去と未来は永遠のいまのうえに重ねあわされた象徴的な境界の幻想の産物にすぎない。この象徴的な境界は、永遠を分裂させ、昨日対明日、以前対以後、過ぎ去った時対来るべき時に見せる。このように、永遠のうえの一つの境界としての時間は、解決すべき問題ではなく、最初から存在しない一つの幻想にすぎないのだ。

119 過去を直接体験できないとしても、記憶が実際の過去の知識を与えてくれると思い込む。私が過去のことを考えているときに思い出しているのは、特定の記憶だけであり、その記憶自体も現在の体験である。
120 過去は現在のなかでのみ、そして現在の一部としてのみ、知られるのだ。

   われわれが「過去」と呼ぶものが実際に起こったときには、それは現在の出来事であった。すなわち、いかなる時点であれ、私が現実の過去を直接自覚することはないのである。それと同様に、私が未来を知ることもない。唯一知っているのは予期とか期待だけであり、それらもまた現在の体験の一部である。予期とは記憶同様、現在の事実なのだ。

  過去を記憶、未来を予期として両者を現在の事実ととらえることは、あらゆる時間外間存在していると見ることにほかならない。
121 すべての時は、いま、現在の瞬間に含まれている。
    いま以外の時はない。
    外観が何であれ、あなたが唯一体験しているのは永遠の現在である。
    しかし、一般にほとんどの人が、現在の瞬間を永遠の瞬間とは感じない。われわれは現在の瞬間をおそらく1,2秒しか続かない過ぎゆく現在、痩せ細った現在と感じている。
122 別のいい方をすると、現在の瞬間を境界づけられた限られたものと感じるのである。過去と未来にはさまれているように思うのだ。事実と記憶/象徴の混同をとおして、われわれは時のない現在の一つの境界を設け、それを分断して過去対未来という対立に仕立てあげ、時間を過去から「過ぎゆく現在」をとおって未来へと向かう一つの動きととらえる。永遠の領域に境界をもちこみ、自らを閉じ込めてしまうのである。
123 現在は過去と未来によってサンドイッチの状態にされ、あらゆる側から制限されている。限定され、取り囲まれ、制限されているのだ。開かれた瞬間ではなく、握りつぶされ、押しつぶされた瞬間、すなわち、ただ通り過ぎるだけの過ぎゆく瞬間なのだ。過去と未来があまりにも現実的に思えるために、サンドイッチの中身である現在の瞬間は、薄いスライスにされてしまい、われわれのリアリティは中身のない両側のパンだけになってしまう。
  だが、記憶としての過去がつねに現在の体験であることがわかれば、この瞬間の後ろにある境界は崩れ去る。この現在の以前には何もなかったことが明らかになるのだ。同様に、予期としての未来がつねに現在の体験であることがわかれば、この瞬間の前にある境界は吹き飛ぶ。われわれは前後に何かがあるという重荷がすべて、突然、即座に、完全に消え去る。この現在はもはや縁取りをされたものではなくなり、拡大されてあらゆる時間を満たすようになる。
124 この今の姿勢は、無境界の瞬間である。

125 対立からの解放

126 記憶が現在の体験の外に存在すると思いこんでしまうために、記憶=自己も同様に、現在の体験の外にあるように思えてしまう。そうなると現在の体験である自己が、現在の体験をするようになる。記憶が現在の瞬間の後ろにある過去の体験であるという感覚は、自己が現在の体験の後ろにある個別の実体であるという感覚とまったく同じものである。観察者が「いま」の外にあるように思えるのは、記憶を実際の過去の体験と思ってしまうためである。観察者とは記憶である。記憶が「いま」とは別に思えるとしたら、観察者も自らを「いま」とは別と感じてしまう。
127 だが、それと同じ理屈で、あらゆる記憶が現在の体験であることが理解されれば、自己が現在と離れたところに存在しているという考えの基盤は完全に崩壊してしまう。

 ということで、メモはとったもののどれだけ理解しているかは、はなはだ疑問です。
 でも、『ギヴァー』の扱っているテーマと関係が深いことだけはわかります。

2014年5月1日木曜日

『無境界』 その2


ちょっと長くなりますが・・・・

第3章 無境界の領域 
61 アリストテレスが自然のなかのほぼすべてのプロセスと物を説得力に富んだ正確さで分類してしまったために、何世紀ものあいだ、ヨーロッパ人は彼の生んだ諸境界の妥当性に疑問をさしはさむことすらできなかった。
   だが、いかに正確かつ複雑な分類をもってしても、そういった種類の境界線では ~ 科学的には ~ せいぜい描写と定義しかできない。

   ピタゴラスがしたことは、数えたこと。
   命名が魔術であるとすれば、計算は聖なるものである。名前は物事を魔術的に表すことができるが、数はそれらを超越することができるからだ。2という数は、あらゆる種類の2つのものをくまなく指す。つまり、ある意味で物を超越しているのである。(ミカン2個、オレンジ2個、リンゴ2個、犬2匹、etc.
62 抽象的な数によって、人間は頭を具体的なものから解き放つことに成功した。これは第一のタイプの境界、すなわち命名、分類、識別をとおしてもある程度可能であった。だが、数はこの力を劇的に高めた。ある意味で、数を数えることは、まったく新しいタイプの境界であったからだ。それは境界に対する境界、一つのメタ境界であった。
   命名は第一のタイプの境界を生み、第二の境界は種類の種類を生む。

   境界には政治とテクノロジーの力が備わっているために、人はそれによって自然界を支配する能力を高めたのである。
   同時に、人間と世界のより広範な疎外と分断化をもたらしたのである。 ← 『ギヴァー』
63 この抽象的な数という新たなメタ境界は具体的な世界をあまりにも超越していたために、人は具体対抽象、理想対現実、普遍対特殊という2つの世界に住むようになってしまった。その後、2千年にわたり、この二元論は12回もその形態を変えることになるが、それが根こそぎにされたり、調和されることはほとんどなかった。それは、合理対浪漫、観念対体験、知性対本能、秩序対混沌、心対物質の戦いとなった。これらの区別はすべてしかるべきリアルな線に基づいていたが、これらの線は一般に境界と戦いへと堕落してしまったのである。
   数、計算、測定などからなるこの新たなメタ境界は、1600年前後のガリレオとケプラーの時代になるまで、何世紀ものあいだ、自然科学者たちによって実際に使われることはなかった。教会の存在と力が使うことを封じていた!
64 しかし、17世紀になると教会は衰退しはじめ、物理学者たちが「測定」を始めた。
   彼らは、メタ境界の上に境界を設けたのである。幾何として知られている超メタ境界を発明したのだ。
   要約すると、第一の境界は種類を生む。メタ境界は数と呼ばれる種類の種類を生む。第三のメタ境界は、変数と呼ばれる種類の種類の種類を生む。この変数は公式の中でX,Y,Zとして表される。変数は、あらゆる範囲のあらゆる数を指すことができる。

65 アダムは植物に命名することができた。ピタゴラスはそれらを数えることができた。ところがニュートンには、それらの重さがわかったのである。

66 第三の境界は、測定を結論に、数を原理に転換する。各段階、個々の新たな境界は、それぞれより一般化された知識とそれにともなう力をもたらす。
   しかしながら、この自然に対する知識と力と支配は、代償を支払ったうえで獲得されたものである。境界とはつねに両刃の剣であり、それが自然から切りとった果実は必然的に甘くて苦いものだからだ。人間は自然を支配する力を獲得したが、そのために、自らを自然から根本的に切り離してしまった。わずか十世代のあいだに人間は、歴史上初めて、自らを含むこの全惑星を木っ端微塵に爆発させうるという忌まわしい栄誉を勝ち取ったのだ。

68 世界は一つの巨大なニュートン的な玉突き台 → 量子革命
69 古い物理学は原子を比ゆ的にニュートロンとプロトンが太陽核を構成し、そのまわりを個別の惑星的エレクトロンがまわっているミニチュアの太陽系と見ていた。ところがいまでは、原子はまわりの環境に限りなく溶けこんでゆく星雲のように見えてきた。「素粒子とは、独立して存在している分析可能な実体ではない。それは本質的には、外のほかの物とつながる一組みの関係性である」 それらが境界を持っていないからである。

71 縫い目のない衣

73 世界はある意味で一つの巨大な原子に似ているという現代物理学の概念は、「法界」という仏教の考え方そのものである。それは、事事無碍と呼ばれる。事は「物事、実態、現象、対象、プロセス」を意味し、無は「ない」、碍は「障害、妨害、境界、分離」(さまたげ、じゃまする)を意味する。事事無碍は「宇宙のなかのあらゆる物事のあいだには、何の境界もない」と翻訳されるのである。

74 「原子という極微の宇宙のなかの一個の小さな粒子が、未来とはるかな過去を有する無限な宇宙のなかの、無数の物体と原理を完全無欠な状態で実際に含んでいるということである」
   「すべては一であり、一はすべてである」仏教
   「個々の粒子は他のあらゆる粒子からなっており、それぞれの粒子も、同じような形で同時に他のすべての粒子からなっている」現代物理学
  → 無境界の縫い目のない衣と見ている

75 東洋は、すべての境界が幻想であることを知っていたのである。そのため彼らは、地図と領域、境界とリアリティ、シンボルと実在、名前と名づけられたものを混同するというまちがいを犯さなかったのである。

76 仏教の「空」の教義 ~ リアリティには思考もなく物もない。

   「物」を見るということは、考えることであり、考えるということは自ら「物」を描くことである。このように、「考えること(thinking)」と「物すること(原語は何??)」は、われわれがリアリティに投げかける境界の網の2つの名前なのだ。
   仏教でリアリティが空であるというのは、境界がないという意味である。
77 重要なのは、世界が境界のないものと見られると、あらゆる物事が ~ すべての対立と同様 ~ 相互に依存し、浸透しあっている、と見られるようになることである。喜びが苦痛、善が悪、生が死と関連しているように、あらゆる物は、「それらではないものと関連している」。
   大半の人にとって、これは理解しがたいことである。われわれはいまだアダムの原罪の呪縛の下にあるために、生そのものにしがみつくように、境界にしがみつくからである。だが、リアリティは無境界であるという洞察の真髄はきわめて単純である。単純であるために、理解しにくいのだ。たとえば、視野を例にとってみよう。自然をながめわたすとき、目は単独の分離、独立した物を見ることがあるだろうか。一本の木、一つの波、一羽の鳥を見たことがあるだろうか。
   この本の印刷された文章を読んでいるいまでさえ、自分の全視覚野を注意深く見てみれば、目が一度に一つのことばだけを見ているのではないことがわかるはずだ。実際に読めはしないとしても、目はこのページのあらゆることば、さらにそれを囲む背景の一部、そしておそらく自分の手と腕、膝、テーブル、部屋の一部などを見ている。つまり、あなたの身近な実際の自覚のなかには、分離した物も境界もないのである。 境界はまったくないのだ。

80 あらゆる境界は、本来何もないところに分離(とひいては争い)をつくるという意味でまぎれもない幻想である。対立のあいだの境界と物事の境界は、究極的にはやはりまやかしである。